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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

合理的な人間?

なあなあとか,あるいは,いい塩梅で,十分ではないかと思いますが,どうも,プラマーナ論者は,つきつめて考えすぎ,の気がします.

つまり,100%正しいか,あるいは,そうではないか,という高い確度を求めてしまうのです.

一種の病気でしょう.

99%正しければ,もう,十分正しいと思うのですが,そのようなものは,絶対にプラマーナと呼びたくないという病気です.

推論が正しいかどうか,というので,一所懸命,「絶対に正しい」「絶対に逸脱しない」などという盲信へと猪突猛進.

そりゃ,無理でしょう.

はなから.

もちろん,そのような無理あるところを一所懸命考えるところに,あれこれと面白い論法が出てきて,議論が発達したので,こういう無理無理の公案にぶちあたることは,決して悪くないのですが,しかし,つきはなして客観的に見れば,「ごくろうさま」としか言いようがありません.

犠牲者がupamaana.

もともとは,「ガヴァヤは牛のようだ」というような比喩にすぎなかったupamaanaですが,プラマーナに100%の確度を求める中で,そのような本来の比喩は死亡,さっさと別のものに置き換えられてしまいました.

ニヤーヤによれば,「これはガヴァヤという名称を持つものである」という100%の確度を持つ認識,つまり,名称と名称所有物との関係の認識が,upamaanaの実質になってしまいます.

identificationの一種です.

なんやそれ,という感じですが,こんなことを真剣に論じるようになったのも,もとはといえば,upamaanaに100%の確度を求めたからです.

ミーマーンサーでもupamaanaをめぐっては,へんなことになっていますが,いまは省略.

で,議論は疑惑と発動.

合理的人間というのは,正しいと分かって行動する人でしょう.

見込みをもって行動する人.

インド哲学用語では,prek.saaを前提として行動する人,というように表現します.

予想をもって行動する,ですから,ある一定の見込みがあってするのであって,やみくもに行動する狂人ではない,ということです.

当然,プラマーナは,行動の成果とつながってはじめて有用なプラマーナたりえますから,プラマーナは正しい,しかも,(彼らの病気のせいで)100%正しい,ということを求められるわけです.

プラマーナに基づいて行動する,とは,100%正しいということが分かって初めて行動する,ということです.

しかし,本当に現実はそうでしょうか?

ニヤーヤ学派ながら,ジャヤンタは,なんと,これを否定してしまいます.

世間では,疑惑からでも行動して問題ない,と.

実際,我々は,多くの場合,100%正しいと信じて行動を開始するわけではありません.

いけるかなー,くらいの期待で行動するわけです.

これは,インド哲学では,疑惑から発動する,と表現されます.(インド哲学で疑惑というと,厳密には,50・50%でしょうが,しかし,6・4割でも,それを疑惑と呼ぶことに問題はありません.すこしでも疑いがあれば疑惑なわけです.彼らには確率という概念は明確にはないので,probabilityということは,ほとんど問題になりません.すこし残念な点です.)

世間的な事柄に関しては疑惑から発動しても問題ない,ただし,ヴェーダ聖典に関係するような大規模な祭祀に関しては,100%の確度が求められる,というダブルスタンダードがジャヤンタの意図するところです.

つまり,世間に関しては,まあ,どうでもいい,ということです.

ただし,世間での事例も,ヴェーダに少しは役立つことになるので,まったく無用ではない,というのが彼の世間の守り方です.

(役立ち方の詳細は省略.)

ともあれ,我々の日常生活において,実は,プラマーナに100%の確度は全然必要ない,ということです(――ジャヤンタによれば).

「手に入るかも」くらいの疑惑混じりの期待で行動を開始,あとから,「あ,やっぱり正しかった」と分かって十分なわけです.

最初から,「この認識は正しいのかどうか」と吟味する必要はありません.

そういう必要があるのは,ヴェーダ聖典に基づく認識だけです.

日常の営為を一種「ないがしろ」にするジャヤンタのこの見方は,仏教から来たものと思われます.

世俗と勝義との二階建てを認める仏教ならば,このように世間の営為を一段低く見ることに全く問題はありません.

疑惑から行動しようがどうしようが,所詮,世間は錯誤に満ち満ちた世界ですから,そんなもので終わって十分なわけです.

疑惑から行動する,と世間をみなすことに問題はありません.(実際,知覚であろうが推論であろうが,いずれも,本質的には錯誤であり,それに基づいて,聖者ならぬ世間の人々は行動しているわけです.)

ジャヤンタの見方というのも,もとをたどれば,このような世俗と勝義の二階建てを,世間とヴェーダとに転用したとみなすことができるでしょう.

経済合理性などと人間を理想化して,あたかも十分に計算して行動するかのようにみなすのではなく,まあ,所詮は錯誤(と錯誤であっても何とかうまくいってる世界)に基づいて生きているのが人間ということです.

もちろん,本質的には錯誤だけど世俗では正しいという世俗諦というものと,世俗でも錯誤でしかない単なる錯誤とは区別して考える必要がありますが,そこはそこで,また別の話.(つまり,勝義と正世俗と邪世俗という三分になります.)

この三分法が,唯識の三性説とパラレル構造にあるのは言うまでもないでしょう.
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  1. 2019/10/24(木) 19:21:27|
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