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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

有用性の視座?

自分の興味の範囲内で相手の中に役立つものを見つけ出そうとする態度がどのような結果を生むかは想像に難くないでしょう.

ちょうど,植民地期のインドロジーやインドロギーと同じで,金になるものや統治に役立つもの,あるいは,自分が分かるもの,キリスト教との比較が簡単なもの,あるいは,ロマン主義をかきたててくれるようなものに,研究の熱情は向かうことになるのは明らかです.

相手自身に即してではなく,自分の興味に即すと,当然そうなります.

自分の興味範囲で相手を区切ってしまうわけです.

他人の自分評を聞いて,「はて,自分にはそんな面も確かに有るけど,ほんと,それは一面なんだけど」と思うことがありますが,それと同じです.

一部を切り取って喜んでいるだけです.

全体を捉えるというのは,(ディグナーガ的に考えても言葉をもってしては)不可能かもしれませんが,しかし,あれこれの側面を切り取る前に,自分の興味でぶったぎってしまうのも考えものです.

キリスト教との比較という観点で,自由意志というもので一所懸命インド哲学文献をさらえてみても,たいしたものは出てこないでしょう.

磁石を近づけても,そこに鉄がなければくっついてきません.

そこにないものをやみくもに求めても,くず鉄があつまるのが関の山でしょう.

対象に即して全体を捉える,という態度がまずもって重要でしょうが,現実には,もちろん,パラダイムやらに拘束されて,なかなか客観的に見ることができないのが人間.

それを自覚して,できるだけ対象に接する必要があるのはいうまでもありません.

人の気持ちが分かるというのは,そういうことでしょう.(もちろん,自己認識レベルで人の気持ちが分かるわけはありませんから,人の気持ちが類推できる,ということです.)

ミーマーンサーの研究史というものを見ると,まあ,悲惨です.

比較対象がないので,西洋の知識人にはさっぱり分からない対象ということになるでしょう.

せいぜい,法学の観点から,ちょっと似てるということになりますが,現実には,ヴェーダ祭式の込み入った議論が前提にありますから,ヴェーダ祭祀儀礼の知識が必要になりますが,そのヴェーダ祭祀儀礼がそもそもがインド人にとっても時代遅れのものですから,どこをどうあがいても「役立つ」というようなことにはなりません.

せいぜい,ミーマーンサー由来の諺(つまり判例的な解釈原則)が法律解釈の拠り所として役立つくらいです.

歴史を遡れば,クマーリラしかり,ミーマーンサーの重要性は火を見るより明らかですが,研究が遅れてきた一因には,インドで伝統がすたれていたということもありますが,それに加えて,西洋の知的な網に引っ掛からなかった,ということもあります.

つまり,なんだかよく分からない知的体系がある,ということで,切り捨ててこられたわけです.

サーンキヤやヴァイシェーシカなら,簡単に分かります.

こんな感じの哲学体系です,と一言で説明できます.

ヴェーダーンタも神学ですから,これも,わかりやすいものです.

「神学の一種です」といえば終わりです.

しかし,ミーマーンサーをずばっと捉える表現は,西洋にはありません.

聖典解釈学とはいえ,その聖典が,そもそもが,祭祀儀礼についての聖典ですから,祭事哲学でもあり,聖典解釈学でもあり,判例集でもあるわけです.

タルカパーダだけを捉えれば,聖典擁護の論理であり,一種の「言い訳」でもあるわけです.

どれもこれも,ミーマーンサーという学問の一面でしかありません.

自分の興味と自分の頭でもってミーマーンサーやクマーリラという巨像を捉えようにも,虚像だったり,せいぜい,群盲象の妄像となる次第です.

すくなくとも,最初に,相手の言うことに素直に耳を傾けるという態度が必要でしょう.

文献的な意味での参与観察です.

1年2年3年4年と一緒にいて見えてくるものがあります.

文献も同じことです.

巨大な体系を相手にする場合は特にそうです.

マリアナ海溝を相手にするくらいの覚悟で望まないといけません.
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  1. 2019/10/25(金) 19:28:22|
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