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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

わかりやすくすることでわかりにくくなる



英語論文の直し.

さいわいにも,熱心なエディターが細かくあれこれとコメントをつけてくれているので,その注文にそって直しています.

日本語なら日頃,日本語人大学生を相手にしていますから,大学学部生レベルの一般読者であれば,何を分かって何を分からないのか,この表現だと通じないか通じるか,ということも分かりますが,さすがに英語となると,一般レベルがどうなのかは五里霧中.

注文に沿って,やさしく書き換えたり,あるいは,追加したりするしかありません.

日本語もそうでしょうが,英語となると,さらにサンスクリットの基本構造から離れるので,どうしても分かりやすい英語表現と,原語との距離があいてしまいます.

勢い,英語で分かりやすくしようとすると,サンスクリットの原語では自明の意義素やニュアンスや含意が失われてしまうことになります.

一般に寄り添って分かりやすくしようとした結果,原語のニュアンスが消えてしまい,かえって,根本的な構造が見失われ,分かりにくくなってしまうという例です.

翻訳という作業は,どうしても,そういう犠牲を伴ってしまいます.

しかし,哲学のように抽象的な議論の場合,この,分かりやすくしようという作業――つまり直訳から離れる作業――というのは,致命的な結果をうむことになります.

英語でわかったような気になっても,じつは,根本的なところで原語から遠ざかり,結果として,彼らの世界(世界観)そのものから離れてしまっているからです.

フラウワルナーの直訳スタイルが専門家から尊ばれるわけです.

なぜか.

直訳でわかるしかない世界というのがあり,しかも,それが,哲学文献の理解においては決定的に重要だからです.

わかりやすい英語にあらためることで,失われてしまう情報が余りにも多いということです.

アメリカなどは,とくに,一般向けの注文が多い所で,「一般に通じないものは意味がない」というプラグマティズムが浸透しているでしょうから,専門家の直訳調のジャルゴン風味は嫌われる風潮があります.

[ ]などの補い記号も使わない人が多かったりと,一般志向が徹底していたりします.

しかし,そのことで,原語を想定しえない読者は,重要な情報を失ってしまうことでしょう.

自分の足場から一歩も動かないまま,どうして,相手のことを理解できるでしょうか.

自分の世界観を再確認・補強するだけで,おそらく,違和感のある新たな見知らぬ世界観を学ぶことはない,ということになってしまいます.

いいたいのは,例えばイヌイットの雪の細かい分類や、萌黄色や群青色などといった,微妙な分節の異なりの問題だけではなく,世界観そのものが決定的に違っているということです.

寄って立っている世界が違うのに,それを別の世界観で理解しようとすると,通じたようで実は通じていない,ということになってしまいます.(なにやらクワインのような話ですが,そういうことです.)

ともあれ,原理的に翻訳が不可能だとしたら,読者が分かったような気になるくらいにもっていけば,上等というでしょう.

TED風にプレゼンしようがしまいが,情報伝達量に対して違いはないにもかかわらず,TED風のほうが人気があるのと同じで,まあ,見せ方の問題と満足度の問題ということでしょう.

伝わりようがないのならば,せめて,伝わった気にさせるくらいのほうがまし.

たとえそれが,原語から遠ざかっていようとも.

かくして,誤解や誤読による創造的誤読が続くのかもしれません.

まあ,それも,効果的作用という意味では,立派に「役立っ」ているわけですから,存在意義はあるでしょう.

ともあれ,いくら翻訳技術が進化しても,原語を知っているという専門家の強みが消えることはないでしょう.

なぜなら,翻訳で削られた部分には幾多の重要情報がつまっているからです.

精米された白米に栄養がないのと同じです.

白米のほうが食べやすいでしょうけど,食べやすくすることで,あれこれの重要な要素が失われてしまっているのは疑い得ません.

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  1. 2019/11/17(日) 09:21:28|
  2. 未分類

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