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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

インド哲学の(説明の)むずかしさ

人に説明するのが面倒,というのは,どこの分野も大なり小なり同じでしょうけど,しかし,事実を説明するのと,抽象的な思考を説明するのとでは,そのわかりにくさの違いというのは歴然です.

思考の筋道というのは,そうそう簡単に説明できるものではありません.

インド哲学文献で,もっとも説明のしにくいものに,テキストAをテキストBがXという形で解釈したのを,さらに,テキストCがYという形で再解釈している,というように,複数の主体が関わる場合があります.

つまり,字句解釈の問題.

この場合,いちいち,主語を明記しながら,同じ字句を扱っているのに,BはAの文章をXと解釈してるが,CはそれをYと解釈している,というように説明した上で,さらに,しかしAのもとの意味はそうとは思われない云々というようなことになります.

さらに,そのうえに,前主張などが挿入されていたりすると,もう大変です.

しかし,インド哲学文献の場合,基本,註釈文献なので,A→B→C→...というように伝統が続くのが普通ですから,最初の最初から最後までの流れを押さえることが必須です.

ウダヤナのNVTPをやるには,当然ですが,NS→NBh→NV→NVTT→NVTPという経・註・復註・復復註・復復復註の流れを押さえる必要があります.(いうまでもありませんが,事実を扱う科学理論とは違って,最後の最後の説が事実に即して正解なので,それ以前の誤った説はもはや学ぶ必要なし,ということにはなりません.古典研究・思想史研究(そして思想研究)の場合は,昔むかしに遡らないと理解の秩序立て・整理ができません.)

以上は,記述対象のややこしさ.

語彙レベルでも,サンスクリットは面倒です.

ヴェーダ研究(祭式文献研究)の場合は,原義の確定というのがまずは最初です.

そして,それは,サンスクリットの理解においては生命線です.

つねに原義を意識しながらサンスクリットを読む必要がありますし,その作業を,サンスクリットを読む人は大なり小なり無意識に行わないといけません.

実際,そういう意識でイメージを広げながら誰しもサンスクリット文を書いているわけです.

(後代の)誰にとってもマザータングではありませんから,ナチュラルに書いているわけではなく,語の生成に意識的なわけです.

語源がないようなものでも,インド的には,フォークエティモロジーというこじつけ語源解釈までご丁寧にありますから,それも,それを前提としている後代の人の文章を読む場合には必要な場面があります.

さて,シンプルかつストレートな原義で文意理解が済めばいいのでしょうけど,インド哲学の場合は,そこからがさらに勝負.

いろんな意味が辞書に出ていますが,便利な哲学辞書というようなものは用意されていませんから,実際のところ,インド哲学理解のためには,自分でどれが哲学的な意味なのかを多くの意味の中から限定してやる必要があります.(例外的に,ウィーンからドイツ語で哲学術語辞典が出たり,あるいは,英独仏のちゃんぽんで,タントラ語彙辞典がでています.)

語→原義→特定的な意味

というようになります.

この作業を脳内で自動化するために,あれこれの文献を先生と一緒に読む必要があるわけです.

辞書には,色々な意味が書いてあります.

とくに,最初のほうが原義に近い意味です.

そこから派生する意味が数多く書かれています.

したがって,初学者は,いったい,語意の1~10のどれが,今の文脈に合う意味なのか探さないといけません.

あるいは,ぴったりくるものが無い場合は,文脈と原義に即して自分で想像しないといけません.

インド哲学(認識論)文献の場合は,たとえば,niyamaといっても,「内に抑える」から,ヨーガ文献に見られるような抑制(勧戒とも訳される)というのが原義に近い意味になるでしょうけど,文法学的には,「だけ」evaのavadhaara.na制限・制約,つまり,限られることというのに対応することになるでしょうし,さらに,そこから,遍充関係の言い換えで普通に用いられたりもします.

しかし,遍充関係の同義語として用いられるなどということは,辞書のどこにも載っていません.

物理的に「内に抑える」から「限る」という制限・制約という概念となり,そこからさらに推して,推論の前提となる特定の概念「遍充」の同義として固定して考える必要があります.

仏教であれば,ある程度,なじみのある概念が漢語や和訳を通して普及しているからいいものの,そうでないサンスクリット文献の場合は,対応概念をいちいち説明するのが面倒になります.

博論の時だったでしょうか,vikalpaを任意選択と注もつけずに訳していましたが,仏教の先生からは「分別が普通なので,注が必要では」と言われましたが,実際には,サンスクリット的には,任意選択のほうが普通(つまり常識)で,分別(概念構想)のほうが特殊な仏教的用法です.

要するに,「あるいは」(vaa)という語の意味として任意選択という概念があるわけで,文法学的には基本の基本です.(いっぽう,「と」caの意味がsamuccaya並列です.)

実際,アプテでは,4にoption, alternative (in gram.)とありますが,13. Fancy, imaginationとあります.

ここでも,conceptualizationやmental constructionなどというような便利な訳語は微塵も辞書には載っていません.

仏教的解釈のほうがむしろ特殊な用法となります.

しかし,こんな基本の基本まで,いちいち脚注をつけろ,というような注文が飛んでくるのです,専門家からでも.(たとえば、アビダルマの専門論文で五蘊にいちいち注つけたりしないでしょうし、唯識の専門論文で三性説をいちいち説明したりはしないでしょうし、仏教論理学論文で遍充をいちいちあらためて注で解説したりはしないでしょう。)

字数制限の厳しい査読論文においても,同じようなことは起こりえます.

レベルの低い査読者なら,「何が何なのか,著者の言ってることは全然わからん,けしからん」ということはあるでしょう.

その場合,「(俺には)分からんから(俺様を代表とする専門家のために)注をつけろ」という注文ならまだしも,「(俺様の辞書では)これはここの語義ではない」というような「ご意見」まで与えかねたりしかねません.

無知の知がない査読者.

著者側から見れば,「それ,基本の基本なんですけど」ということです.(つまり,査読の資格なしです.専門論文ですから,それ相応のレベルというものはあるはずですから,一般向けの新書とは事情が違います.いちいちゼロから説明していたら,序で字数制限一杯になって何も論じられないでしょう.)

査読者に選ばれるくらいですから,まわりからはその道の専門家とみなされているのでしょうが,インド哲学の場合,ちょっと専門が外れると,多くがそんなもんです.

分からないなら謙虚になればいいものを,なにしろ,周囲の目がありますから偉そうにしないといけないというプレッシャーがあります.

したがって,それらしい「ご意見」をつけたりすることになります.(あまりにひどい論文ははじく必要があるでしょうが,まあ,一定レベルを満たしたものについては,査読というのは,緩く行われるべきでしょうし,実際,ある雑誌の「査読」なるものは,とても緩い制度でできてます.そして,それが現実的な対応でしょうし,それでいいのだ,とも思います.「レベルを保つ」にしても,それは,一定レベルの査読者が多数存在すればこそですが,それが非現実的な場合は,ゆるめにするしかないでしょう.理想的には全知者に査読してもらえばいいんでしょうけど.逆に,そうすれば,すべての論文が「分かり切ったこと」としてはじかれたりするでしょうか.)

面子の問題です.


閑話休題.

さて,自称専門家相手でもこんなレベルですから,部外者相手となれば,サンスクリット哲学文献に現れる概念の分かりにくさ・説明のしにくさというのは,想像に難くないでしょう.

また,kaala-atyaya-apadi.s.ta(時・過・示された)のように,スートラの時代から存在するテクニカルタームの場合,実際には,スートラの意図したものと,後代の例えばジャヤンタが再解釈しているものとが全然違う場合があります.

この場合,原義から訳すとなるとギャップを埋めるのが面倒です.

なぜなら,相当の距離があるからです.

もちろん,ジャヤンタなりの学者達は,エティモロジカルな説明を欠かしませんが,しかし,それは,距離を埋めるためのものであって,ナチュラルにゴールに導いてくれるものではありません.

無理やりです.

語→原義→・・・・→ゴール

「時を過ぎて示されたもの」という原義から,実際には,最終的に「その論証対象が既に否定されてしまっている擬似論証因」baadhita-vi.sayaというものを意味することになります.

間を自動的に埋める必要があります.

これを,非専門家にいちいち説明するのは面倒です.

また,ニヤーヤ入門では,これを学んでおかないといけません.

サンスクリットを専門とする学会に出かけて行っても,当然ですが,哲学文献については,部外者は,たとえ原義理解ができていても,理解が追い付くのには苦労するでしょう.(それは,日本語が理解できても,哲学文献を理解するのが面倒なのと同じです.)

それは,以上のような距離が存在するからです.

さらに問題は,インド哲学文献は,一般読者に向けて(一般読者層というものを意識して)書かれていない,ということです.

後代の「綱要書」と呼ばれる入門書はやさしく初学者向けに書かれていますが,本気の論書は,専門家相手に書かれているわけで,専門家が専門家に向けて書いているわけです.(そんなわけで,ダルマキールティは,処女作が難しすぎて誰にも理解されないと悲憤していじけているわけです.その後,それを分かりやすくして改作して別の本を著してヒットしてますが.)

我々で言えば,一般書ではなく,専門書の,しかも,論文に近いようなスタイルのものです.

こんぐらい分かるやろうの水準が極めて高い所に設定されています.

それをいちいち一般向けに分かりやすくと言われても,おもりをつけて泳げと言われるのと同じように大変なわけです.6000mの山にアタックするのには,途中のベースキャンプから始めるでしょう.いちいち0mから出発しろと言われたら無理です.

すでにできあがっている世界ならば,便利な訳語も出来合いのものがあるでしょうけど,インド哲学の和訳の場合,自分で新たに考え出さないといけない訳語が多かったりします.(それはそれで楽しいですが,時間のかかる作業であります.)

まだまだ,定訳というものが語レベルで定まっているわけではありません.

流動的です.

そんな低レベルのところでも,あれこれと気を使う必要が出てくるわけです.

というわけで,いちいち自分には分かり切ってることをぐだぐだ説明する必要のない人と話す時にはほっとします.

そういえば,日本に帰ってきて一番不便だったのは,サンスクリットで(および哲学概念を用いて)会話する相手がまわりにいなくなったことでした.

カルドナ先生みたいにしょっちゅうインドにいってインド会話を鍛えるというようなエネルギーはとてもありません.

年配でも鍛えまくったボディビルの元気な方がいらっしゃいますが,カルドナ先生を見ると,そんなイメージが浮かんできます.
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  1. 2020/01/15(水) 08:10:42|
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