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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

自律的偽

かかっているか,はたまた,かかってないのか,それが(自分自身では)客観的に分からない状況というのは,認識の正しさ(真)の議論とも同じ構造を有します.

認識は,その発生の時点では,客観的に正しいのか正しくないのか分からないからです.

クマーリラは自律的真,他律的偽なので,マイアミのパリピ青年のような態度を取ることでしょう.

かかったらかかったときのことで,それまではかかってないんだからOKというのが自律的真,他律的偽の立場です.

かかっていることを心配する杞憂は,特に疑いがない状況(無自覚状態)では無駄,という態度です.

健康を正常のデフォルト,病気を異常とする考え方です.

原則と例外です.

逆に,原則かかっていると思ってくださいというのが,クマーリラと逆の立場.

世間の人々の認識はすべて根本的に間違っているという意味で,ラフには,仏教徒の立場といって良いでしょう.(ただし,カマラシーラは,このようなラベル付けを拒否します.かれは自らをaniyamapak.saと規定します.ということは逆にいえば,そのようなレッテルが張られがちだった,ということになりますから,仏教徒に帰属させることも許されます.)

実践的には,最初から自分はかかっていると思って行動してください,というような指針となるでしょう.

いっぽう,黒白はっきりさせて,かかっているか,かかっていないか検査しろ,というのが他律的真・他律的偽のニヤーヤの立場になります.

全員検査しろ,という立場です.

整理すると以下のようになります.

原則的に健康(証明不要)・例外的に病気(証明必要):ミーマーンサー的
例外的に健康(証明必要)・原則的に病気(証明不要):一部の仏教徒的
健康の証明・病気の証明:ニヤーヤ的

タイに入国する際は病気でないこと(例外的に健康であること)をはっきりさせないと入れてくれませんから,二番目と三番目の他律的真の立場と言えるでしょう.

繰り返されたものや,同種のもの,それらについては正しい,という視点を取り入れるのが,シャーキャブッディやそれに影響を受けたヴァーチャスパティです.

認識の場合は,繰り返されるのは正しい認識の方についてですが,病気の場合は,同種の症状の事例ですから,病気の方になります.

原則的に健康・例外的(病気と判明したのと同種のものについては)病気:シャーキャブッディ・ヴァーチャスパティ的応用

フィフティーフィフティーの疑惑・懐疑の状態というのが一番取扱いに困ります.

これは,ジャヤンタも苦労しているところです.

しかし,見方を変えれば,正しい認識に基づいて行動が起こる(起こるはずだ),そうでなければならないというのは一種の理想の押しつけです.

実際には,仏教徒やジャヤンタも認めるように,疑惑からでも行動は起こりますし,現に我々の行動の大半はそういうものです.

世俗の発動前に100%の確度を求めることに余り意味はありません.

疑惑から発動するしかないというのが実情です.

しかし,その場合も,現実には,クマーリラのように,正しいものとして扱う,それが原則,というのが実際の人間の態度でしょう.

普通はいちいち自分の認識を疑ったりしませんから.

というわけで,マイアミのパリピは,或る意味,誰もが持っている普通の態度だとも言えます.

インドの真理論を別の角度から見ると,100%の確度を押し付ける理想の押しつけともみなせます.

そもそもの議論の出発点が,ヴェーダに基づく認識が100%正しくなければならない,という要請から来ているので当然ですが.

それに対して,「(そのような方法では)間違ってないとは決して言い切れない」と執拗に攻撃するのがダルマキールティ.

100%の確度を求め,必ずしも黒白はっきりしない検査方法の不備をつくのは,ダルマキールティ的だと言えるでしょう.

正しいものとして取り扱っておきましょう,そうしないとシステム崩壊します,という現実主義がクマーリラですが,その「お約束」が客観的には成り立たないことを突くわけです.
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  1. 2020/03/29(日) 12:06:51|
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