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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

思想史研究と哲学スタイルとのテンション

真理論というと,哲学系のインド哲学者の好物です.

ミーマーンサーの視点からニヤーヤ(ナヴィヤ系)重視の従来の見方に一石を投じたのがテイバーの代表的な論文.

ミーマーンサーというと,ニヤーヤの他律的真に染まった頭からは,ヴェーダ絶対視のナイーブな真理論(ヴェーダは絶対正しい)を説くあほな連中と思われていたのかもしれませんが,それに対して,ミーマーンサーの自律的真の議論に十分哲学的価値のあることを示した論文として重要です.

それに乗っかったダン・アーノルド.

そして,批判的な視点を提示するラリー.

最近では,完全に哲学系の人であるImmermanの論文もあります.

いっぽう,日本では日本で,独自の流れがあります.

こちらは,哲学系というよりは,従来の日本の堅実な手法が中心.

宇野,服部,若原,片岡,志田,石村などなど.

仏教論理学系からは稲見.

谷澤さんがいれば,日本でも,哲学系で,もっと面白いことになったでしょうけど,急逝されたのは残念です.

しかしながら,(日本語の成果を参照しえない)欧米の議論を見ても,なんだかなー,という思いが強くあります.

哲学的な価値を論じると,当然,パールタ重視になりますけど,どうなんですかね.

もちろん,議論の当初の段階では,とっつきやすいところからになるのは理の当然.

たとえば,仏教論理学研究が,アプローチのしやすいダルモッタラやモークシャーカラグプタから始まったのと似たところがあります.

しかし,段階が進めば当然,歴史的なアプローチが必要となります.

つまり,それぞれの事情を考慮して,それぞれの背景を知ること.

ダルモッタラにはダルモッタラの事情があるわけで,当然,それは,ダルマキールティの背景とは異なります.

そのような視点が,「パールタ(哲学的に)最高」というような礼賛からはかき消されてしまいます.

当然,一番古い註釈者は,ナイーブすぎる解釈として切り捨てられてしまいがちです.

デーヴェーンドラやシャーキャブッディのように.

それと似たことがウンベーカにも当てはまります.

しかし,歴史的発展を見ていく場合には,当然,古いのが一番重要ですし,当然,元に一番近いと目されるわけです.

背景には,他学派や内部の論争があったはずで,その紆余曲折をあとづけるためにも,最初から順に追っていく必要があります.

もちろん,モークシャーカラグプタの最後から逆に追っていく,ラトナキールティから跡付けていくというやり方も重要です.

その意味で,パールタによる後代の視点からの整理は重要です.

しかし,それを踏まえたうえで,さらに,途中途中の経過を(単に哲学的にナイーブだからと切り捨てることなく)追うことも重要です.

「インド哲学はエジプト学にあらず」という現代的な視点からは,古いどうでもいい部分は切り捨てていい――そしてインド哲学の最高の部分だけ取り出せばいい――のかもしれませんが,しかし,その切り捨てられんとするものの中にも何かあるかもしれません.

まずは思想史の整理.

これまでの真理論の議論経過を見ていると,ウンベーカが不憫でなりません.

かなり良いこと言ってるんですけどね.

まあ,時代的に初期なので,テキスト状態に若干難があって,おいそれと使えないという実情があるのも理由の一つなんですが.

つまり,素人が手を出すと火傷するので,なんとなくみなさん,やらないのでしょう.

不都合な実情を隠すために,「これはいらん」と切り捨ててきたというのもあるのではないか,というのが私の見立てです.

いずれ,ウンベーカの再評価が始まるべきだと思います.

というわけで,ミーマーンサー研究の指針は,仏教論理学研究とパラレルに――先行モデルを後追いしているものとして,あるいは,後追いすべきものとして――考えていくべきでしょう.

さて,今年は,夏に韓国開催予定だったIABSもダルマキールティ学会も,当然のことながら,延期.

来年だそうです.(来年,本当にできるのかどうかはともかく,「そうしたい」という理想の現実へのsuperimpositionと受け取っておきましょう.)

オーストラリアのWSCも,2021年1月ですが,どうなるんでしょうね?

いまのところ,まだ,やるつもりのようですけど.

ともあれ,大画面の液晶でも買って,これからのオンライン研究会(たくさんの人の顔を大画面にならべる)に備えたほうがいいかもしれません.

老眼にもいいかも.

むかし,オックスフォードのS教授の部屋にいくと,彼が,でっかいでっかい大画面を購入して,画面をかなり離したうえで,小さい小さいマックに人差し指で高速タイプしてるのを若い我々は面白がっていましたが,我々もそういう年代に突入したということでしょうか.

そういえば,S教授,あるときに,「(学生だった)若い人が老眼の兆候とか聞くと嬉しい」と,にこにこしながら言ってましたけど,納得.

サンスクリット本のデーヴァナーガリー活字も,結構小さいと感じるようになり,タイピングするときに不便です.

認識の真理論的には,視覚機能に損傷因(ドーシャ)がある,ということでしょうか.

通常,小さすぎるという欠陥は,対象の側に帰せられますけど,どうも,この老眼の場合は,そうではないでしょう.

ちなみに,昔に指導していたS藤さん,紙をけちりたいのかどうだか,ものすごい小さいフォントサイズで印刷してきて閉口したものです.(脚注サイズが本文サイズ.脚注サイズにいたっては,もっと小さい.)

あれは,私だけでなく皆さん,小さすぎると嘆いてましたから,S藤さんのほうに咎を帰すべきでしょう.

前世で米粒に字を書きこむ修行でもされたのでしょうか?
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  1. 2020/04/06(月) 19:07:04|
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