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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

PVSV 52cd-53ab



nānopādhyupakārāṅgaśaktyabhinnātmano grahe//
sarvātmanopakāryasya ko bhedaḥ syād aniścitaḥ/


先週読んだのに,一週経つと,すっかり頭に入ってこないほど,ややこしい詩節.

いちいち,註釈読み直して,コンパウンド解釈などを確認し直すことになります.

ナチュラルに読者が読むのに適してないというか,ダルマキールティの自分用のまとめ詩節みたいなものも沢山あるのでしょうから仕方ないですが,とはいえ,普通に読みにくいのは否定しえないですし,まあ,実際,過去のインド人もPVSVなぞは,喜んで読まなかったのでしょう.

「読者なし」と嘆く本人の慨嘆も,まあ,むべなるかな.

自分のせいやろと言いたくもなります.

例えばこの詩節.

52cd--53ab.
別々・脇に置かれるもの・裨益・部分・能力・非別・自体・の・把握すると
全面的に,被裨益対象の,いかなる,別が,のか,未確定の?



時間が余り過ぎてパズルをやりたいひとにはうってつけかもしれません.

まずは,長い長い合成語解釈.

別々の外的条件とあるのは,たとえば,壺性や実体性のことで,それらが,相互に別々であり,なおかつ,基体である実在=独自相からも別であることを言っています.

それらへの裨益作用,というのは,基体のほうがそれらを支えもつという裨益作用のことです.

これも,どっちがどっちを助けているのかは文脈次第なのですが,あとを読んでいくと,基体が上のものを支えるという裨益作用であることが分かります.

その裨益をする際に必須要件がアンガと言われています.

これは,部分といっても,ここでは,よくあるように,原因・要因としてのアンガです.

裨益要因となっている能力,というのは,基体が持つ能力のことです.

というわけで,ここまでで,要するに,壺性や実体性といった様々な外的・付帯的条件(つまりヴァイシェーシカでいうところの普遍)を裨益する際に要因となっている,基体がもっている能力のことが言われていることになります.

それと非別のアートマンを持つもの,というのは,基体のことです.能力と実在は別体ではなく同一体です.

その能力と一体の実在を捉えると,というので,とりあえず,52cdまで.



つぎに,「全面的に」とあります.

これは,53aにあるので,一瞬戸惑いますが,上の「把握すると」にかかります.

つまり,全面的に把握すると,ということになります.

これで,ようやく,graheまでが終わり.

要するに,「壺」という言葉から壺性を通じて,実在の壺性への裨益能力と一体となっているその実在が全面的に把握されると,という意味となります.

壺性から実在を捉える時,実体性や有性など,その実在が持つ全側面も捉えられている,ということになります.

すると,当然,裨益される外的条件について,すべてが把握済みということになりますから,未確定の差異(いずれかの外的条件)は何も残ってないことになります.

壺性を持つものを捉えると,実体性までもが捉えられているので,「壺」も「実体」も同義語となってしまうのです.

言葉と確定知,いずれの場合も同じです.

このように,アポーハ論でもって,ヴァイシェーシカの「それを持つもの」説の過失を指摘しているわけです.

たった一詩節ですが,詰め込みも詰め込みすぎ,たいがいです.

或る独自相が持つ壺や実体や有としてのそれぞれの側面を,それぞれの能力という観点から捉えているのは,バルトリハリ的な見方でしょうか.

同じ一人の人間が様々な側面を持つことは我々は身をもって知っていますが,もちろん,このことは,モノにもあてはまります.

同じものが多様な使われ方をするわけです.

本も,読み物だったり,たんに,何かの置台にしたりと,用途が異なれば,その呼び方も場面によっては異なり得ます.

あとから,異なる外的条件の裨益の拠り所の能力,という表現も自註でダルマキールティは使っています.

土台のほうを助ける主体,上にあるものを助けられる対象と捉えたのでしょう.

ディグナーガ的な文脈だと,むしろ,上にあるほうが下に影響を及ぼすので,そっちのほうが助けるものなのかと思ったのですが,違うようです.

もちろん,ここでは,ヴァイシェーシカ的な実在論を前提として,という但し書きがつきます.

ヴァイシェーシカ自身が,「壺」という語から壺性を持つものを捉えると言っているのですから,そのものが全面的に捉えられていることになります.

でないと,それを持つものを捉えたことにならないからです.

壺性だけを捉えるということが,実体的な見方をする場合には不可能となるわけです.

どうしても,全面的にその実在を捉えることになってしまうというのです.

税務署や検索会社が特定の個人を把捉する時,一側面から芋づる式に,その個人の全側面が把捉されてしまっているのと同じです.

ディグナーガやダルマキールティのように,基体と属性とを,ひとまず,独自相と共通相として切り離しておけば問題ないわけです.

共通相はあくまでも,分別対象です.

それは,ダルマキールティによれば,付託の排除です.

つまり,壺性といっているのは,実は,非壺の排除というアポーハです.

もうちょっと細かく言うと,非壺の付託の排除です.

我々が勝手に実在のうえに押し付けて載せた非壺の付託を,取り除いてやるのが「壺だ(それ以外ではない)」という言葉や確定知なのです.

一詩節を理解するのに,こんだけあれこれと議論しないといけないので,ダルマキールティのPVSVの全訳が出ないのも,まあ,当然でしょう.

この,うら若き,坊主頭も髭の剃り跡も青々しかったかもしれない,青年ダルマキールティの青臭い世界に浸りきってしまえば――もちろん,多くの場所で同じことを,手を変え品を変え言っているだけといえばそういえますから――読み進めるのは簡単にはなりますが,しかし,そうすると,そのような理解者は,もはや,現代日本にはフィットしなくなってしまうかもしれません.

読んでるテキストに人格が影響されるというのは,よくあることです.

例えば,シャイヴァの『ピチュマタ』とか読んでると,相当に作者がいかれてますから,かなり頭がいかれてくるそうです.

しかも,タントラのアールシャな用法(変な語法や文法)に慣れてしまうと,サンスクリットもあやしくなってくるというおまけつき.

ダルマキールティの場合は,思想がもはや,常識とは全然ちがいますから,これになれると(つまり,このテキストが最終的に目指す唯識の世界に入れば),現実世界は「幻」としか見えてこないはずです.

まあ,幻術師は,この世界がそう見えていることそれ自体は冷ややかに見て否定しませんから,そういう心情でしょうか.

黄色いほら貝が見えても,別に,それを信じてない心情.

「ほら貝は黄色い(しかしそれは正しくない)」という,まさに,真理の余剰説とまったく逆の発想.

偽の余剰説とでも言うべきでしょうか.

仏教の立場を自律的偽と捉えたのは,たしかに正しかったわけです.

にしても,PVSVを読んでいる人は,案外,エキセントリックでもなく常識人が多いのは,どういうわけでしょうか?

K先生しかり,Iさんしかり,そういえば,Wさんも,きわめて(日本人的な意味で)常識人です.

現代日本の日常に破綻をきたしているPVSV読者は,わたしのまわりでは,一名ほどでしょうか?

案外,ミーマーンサーやってるひとのほうが,エキセントリックかもしれません.

単に,日常で一般の方々とお付き合いの多いお寺さん補正が働いた結果かもしれませんが.

ともあれ,PVSV 50にしても,語順からして,破綻してます.

50. あらんかぎり,部分・付託が,それ・取り除くと,確定
同じ数・だけ,言葉・も,それゆえ,それら,異なる・領域(を持つ)



適切に並べ替えよ,というだけで,テストになります.

一般社会と遊離した僧院のオタク哲学といえばそうかもしれませんが,他学派・他宗派との論争という,容赦ない社会的圧力が実際にあったわけで,お寺における外部資金の獲得のために,ダルマキールティも頑張っていたわけです.

一種,戦闘要員です.

僧院運営のマネジメント能力は,きっと,なかったでしょうし,まさか,これで,経や律の講義をしていたとも思えません.

ジャータカなどを引っ張って,ダルマバーナカとして,普通に法話してたら笑いますが.

そもそも,引例では色恋のことばっかり考えてますから,それほど高徳のお坊様として崇められていた雰囲気も,このPVSVからは,醸し出されていません.

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  1. 2020/05/16(土) 12:32:37|
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