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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

訳でもテキストでも

最低限,シノプシスはつけてほしいと思います.

というか,最低も最大もなくて,その構造がわからないことには,ぱっと参照のしようがありません.

急にテキスト訪問したくなる外部者にとっては,そのパッセージがどういう文脈にあるのか,全体を知る必要がありますし,その全体像は,じっくり読んでこそ,はっきりと分かるものだからです.

インド哲学文献の場合,立場がくるくる入れ替わりますし,よく分からないままに引用すると,前主張と後主張と取り違える場合だって,下手するとありえます.

また,構成がしっかりとわかれば,そこでの微妙なニュアンスもわかります.

皮肉だったり,あるいは,パロディだったり,醸し出すものというのも,構成があればこそ,見えてくるものもあるわけです.

ずらずらと訳しただけの訳を見てると,写本を見てるのと同じで,捉えるのに時間がかかります.

ぱっと見てぱっと分かるテキストや翻訳,それは,構造分節から始まると強く信じます.

というか,それをしない研究とは,そもそも,なんなのか?

なにを見ているのか.

なにも見ていないのではないか,とまで思えてきます.

校訂本を見ても分かりますが,すぐれたパンディットは,ちゃんと,きれいな区切りを入れてくれています.

おそらく,知らず知らずに多くの人は恩恵を被っているのでしょうけど.

むかしむかしのチョーカンバあたりのずらずらとつながった,パラグラフも適当なエディションとは大違いです.

その愚を繰り返す研究は勘弁してほしいと思うわけです.

文学なら,下手にばらばらに解剖されると味気なくなるので,ずらずらとあるのも味があって結構かもしれませんが,哲学文献は,構造で語る部分もあります.

あとは,前主張と後主張の対応というのも,シノプシスがあれば,きれいに見えてきます.

これは,言うは易し,行うは難しで,いざ作ろうと思うと時間もかかりますし,頭も使います.

テクスト校訂も翻訳も,ちゃんと,頭を使いましょう.

それは,語レベルや文レベルだけでなくて,文脈レベルでも使いましょう,という意味です.

シュルティ,リンガ,ヴァーキヤ,プラカラナ,スターナ,サマーキヤーという六認識手段は,文章解析には欠かせません.
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  1. 2020/05/21(木) 08:20:00|
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