FC2ブログ

Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

壺性から実体性へ



「壺」という語から壺を捉えた場合,あるいは,「壺」という確定知でもって壺を捉えた場合,その実在の一側面だけを抽出して捉えるのであって,全面的に捉えることはない,というのがヴァイシェーシカ的な「それを持つもの」の考え方です.

実在には,色々な側面がありますが,壺性という一側面だけから,壺性を持つものを捉えるわけです.

これが「壺」という言葉や確定知の機能です.

しかし,このような見方が成り立たないことをダルマキールティは指摘します.

それは,ヴァイシェーシカ的な存在論に問題があるからです.

壺性と壺性を持つものについて,細かく見ていきましょう.

まず,壺性を支える裨益能力がその壺にはあるはずです.

壺性

能力

実在

という三階建てになります.

そして,いま,この実在と能力は,別物ではありません.

なぜなら,実在が壺性を裨益する場合に,もしも,その能力が実在と別物ならば,その能力はもはやその実在のものとは言えなくなってしまうからです.

つまり,実在と能力はイコールで同一体と見なすしかありません.

壺性
 ↑
能力
 ||
実在

すると,どうなるでしょうか.

壺性から実在を捉える時,その実在の諸能力が全て捉えられたことになるはずです.

というのも,実在と諸能力は一体なので.

壺性A  実体性B
 ↑     ↑
能力a   能力b
 ||      ||
    実在

したがって,壺性から壺性を持つものである実在を捉えると,そこから芋づる式に,それと一体である能力bを通じて,実体性という別の属性までもが把握されることになります.

つまり,ヴァイシェーシカ的なオントロジーに立つ限り,AからBが把握される帰結を避けることはできないのです.

これは,実在と諸能力とを一体であるとしなければならないことに由来します.

逆に,実在と諸能力が一体でないならば,つまり,別物であるならば,その間を結ぶために,さらに別の能力を想定しなければならなくなりますから,無限後退となってしまいます.

54. 属性裨益能力が[基体から]別である場合,もしも,それ(基体)から[諸能力への]裨益がないならば,それら(諸能力)はどうして,「それ(基体)のもの」なのか?[逆に]それら(諸能力)への[裨益があるならば],そうすると,切りがなくなってしまう.



このヴァースだけ初見で読んで,内容を汲めるなら,それは,ダルマキールティ自身くらいでしょう.

補わないで書くと,

属性・裨益・諸能力・の,別の場合,それらは,それの,どうして,もし,
ない,裨益,それから,それらの,そうすると,なってしまう,切りがない



ダルマキールティの漢訳でもあったら,江戸時代の学僧は,どんなことになっていたでしょうか.

漢訳されなくて幸いだったかもしれません.

往時の中国人のお坊さんの趣味には,まず,合わなかったでしょう.

(チベットにはフィットしたのですから,そういう可能世界がないわけではないですが.)

戒律やら禅でもやったほうが,よっぽどため(実益)になりますから.

まあ,そもそも,他学派・他宗派批判というのは,その当事者には意味がありますけど,その文脈から切り離されたところにもってくると,いったい,何を批判しているのか,よく分からないでしょうから,ありがたみも感じられないでしょう.

チベットにいくと,インドの他学派の理解が弱くなるのは,仕方ないことです.

そもそも,他宗を勉強することは,メンタル的に良くないこととされてますから.(来世に何に生まれるか分かったものではありません.)

A教徒がB教のことを学びたがらないのと心性は同じです.

まあ,実際には,ダルマキールティを理解しようと思えば,ディグナーガがそうであるように,他学派・他宗派に通じてないと,無理なわけですが.

他学派・他宗派を理解せずに自宗だけ学べばよしとするひとこそ,まさに,「他の排除」と「差異」の本質に暗い位にいるものとして,cryされるべき対象ということになります.

スポンサーサイト



  1. 2020/05/23(土) 11:00:44|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する