Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

学問における他者への無関心

大学は,昔に比べると,忙しくなったそうです.

いまや,助教授(=准教授)といえども,いろいろな委員会に入って事務書類をあれこれと作成するのが当たり前の世の中です.

わたしも,大学に勤めた当初から(というより既に辞令交付前から),委員会がめでたく内定していたものです.

今日も今日で,授業評価アンケート集計結果の分析・報告書類作成などという有難いお仕事があります.

それが当たり前なのだろうと考えていました.

しかし,昔を知る先生の話を聞くと,どうも事情は違うようです.

むかしは,教授が雑務を引き受けるので,助教授はどうぞ研究してください,という美風があった由.

しかし,そんな美風を保てないほどに,報告書類の量が劇的に増加してしまったようです.

教授も紳士気取りではいられないということです.

当然,みなで仕事を分担ということになります.

「説明責任」なる概念が共有される中,役所的な書類作成を第一と考える社会になったのだから致し方ありません.

日本は,むかしのインドへと逆戻りするのでしょうか?

そのうち,上司のサインを求めて奔走したり,部署間をたらいまわしにする役所大学ができるのでしょうか.




「大学の先生が忙しくなった」ということを,ひとまず事実として認めておきましょう.

このことが,いかなる変化をもたらしたのでしょうか.

教育にも様々な影響はあるでしょうが,ここでは研究に話を限ります.

研究というのは,もちろんですが,時間があってこそ可能なものです.

時間が確保されなければ,頭を使うことはできません.

細切れの時間の中で,高尚な哲学について考えることなど不可能です.

忙しい中で,古の大家が時間をかけて書いた大著に向き合えるでしょうか?

長い時間の間,多くの人に読まれ註釈されてきた古典に向き合えるでしょうか?

しかし,ひとまず,真摯な研究者としては,このような時間を何とか確保するでしょう.

つまり,自分の研究の時間を確保します.

これは,限られた時間のやりくりの中での当然の取捨選択です.

では「自分の研究時間の確保」は何をもたらすでしょうか.

その一つに「他人の研究への無関心」があるのではないか,というのが私の考えるところです.

学会にいっても,どうも,他人の研究発表を理解している風がないのです.

あるいは,他人への関心が薄れてしまっている気配すらあります.

なんのための学会なのでしょうか?

むかしは,どうも,事情が違ったようです.

大家と呼ばれる先生は,うるさく若手に意見したようです.

「こんな発表じゃだめだ」というような突っ込みが,直接あるいは間接に若手に来ることもあったとのこと.

しかし,いまや,そのようなことも稀でしょう.

なにしろ大家の先生は,地位に応じて大学の事務で忙しいのですから,見知らぬよその大学の若手の研究にまで首を突っ込む暇などありません.

時間に余裕のある人がいないことは,このように,学会における他人の研究,分野の違う人の研究への無関心をもたらす,ということは想像に難くありません.

シミレーションでもそうなりますが,現実にそうです.

ダルマキールティは,わざわざ「他者の存在を論証」する必要がありましたが,いまや,そんな論証が必要とされているかのようです.

各自が自分に閉じた中で,どうして学会が成立するのでしょうか?

他者への無関心は,学会にも見られるというのが私の観察です.

もちろん,忙しい現状の中で,自分の研究を犠牲にして他人の研究ばかりを批判するということになれば,ナーガールジュナよろしく帰謬論者の評論家にならざるをえないでしょうが.

余裕のないところに高尚な文化など生まれようもありません.
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  1. 2010/03/06(土) 08:07:13|
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