Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Madhyamakahṛdayakārikā V 20-26

『中観心論』(MHK)といえば,学部時代は,さぞかし(中身も,手に入れるのも)難しい本であろうと思っていました.

江島先生が難しい顔をしながら「MHKが...リントナーが...」と,今はない本郷の庄屋でレモンサワーを片手に熱く語られていたのを思いおこします.

まだ学部時代ですが,一緒に北京までMHKの写本を見に行ったこともありました.

あのころは,ゴーカレーのトランスクリプトを一部の先生が所持されていたようですが,貴重なもので,とても私のような下々の者が手にできるような物ではありませんでした.(その後,1994年に名古屋からゴーカレーのノートは出版されました.Sambhasa 15)

北京で見た写本現物も,えらくありがたげに図書館長に見せられたのを思い出します.

さっと見せて,さっと仕舞われてしまいました.

長年夢見た写本現物を目の前に,江島先生が興奮しすぎて,トランスクリプトに欠落する一葉の有無を確認するのを忘れてしまったのを,そして,その興奮具合を北京のホテルや夜行列車で酒を片手に熱く語られていたのを思い出します.

そんな貴重だったMHKのサンスクリット原典も,いまや,インド・アディヤル図書館からの出版で,160ルピー(400円)で手に入る時代です(2001年出版).

コーヒー片手に,染みでもつけながら,気軽に片手で読めるサイズの本です.(むしろコーヒーの方が高い.)

時代は変わるものです.

とはいえ,元の写本が一本ですから,テクストの状態は完全にはまだまだ程遠いものです.

が,チベット訳を介しての隔靴掻痒の昔の推測読みとは比べ物にならない精度で,バーヴィヴェーカの思想を探ることが可能となっています.

山口益,梶山雄一といった日本の仏教学を代表する碩学が取り組んできたMHKですが,資料状況は昔から一変しています.

いまいちど,新たに取り組む必要があります.

「仏教のサンスクリット原典は研究し尽くされているのだろう」といった閉塞感は,現在の状況では,全くあてはまりません.

これまでの思想史の常識は,これから,どんどん裏切られていくことでしょう.

これから仏教を始めようという学生には,実に挑戦のしがいのある分野です.




MHK V 20-26は,外界対象の存在を認めない唯識説を批判したものではありえず,外界対象を認める経量部説を批判したものではないでしょうか?

その根拠となるのは次の諸点です.


1. MHK V 20-26でバーヴィヴェーカが批判する学説においては,〈対象の現れを持つこと〉(viṣayābhāsatā)が認識手段(pramāṇa)と考えられています.

ディグナーガのPS(V) I 9において〈対象の現れを持つこと〉を認識手段とする学説として考えられているのは,経量部説であって唯識説ではありません.


2.〈対象の現れを持つこと〉は,外界対象の形象と,内的形象とが相似していることをもって,すなわち,外と内の相似性をもって認識手段,すなわち,外界対象が認識されていることの根拠とするものです.

したがって,外界を認めない唯識説において〈対象の現れを持つこと〉を認識手段として立てることに意味はありません.

実際,ディグナーガがPS(V) I 9において唯識説における認識手段として立てるのは〈把握主体の形象〉(grāhakākāra)であって,〈対象の現れを持つこと〉ではないのです.

3. MHK V 20-26でバーヴィヴェーカが批判する学説が提出する喩例はいずれも,外界の形象と内的形象との相似性を訴えるものばかりです.

水晶とその傍に置かれた物という比喩も然り,また,原像と反射像の比喩も然りです.

すなわち,外界対象の形象とそれに即応した認識内の映像という関係を訴えるものばかりです.

水晶の傍に置かれた赤い花の赤色が水晶の中に入り込むように,また,顔の原像が鏡に反射像として入り込むように,外界対象の形象は認識の中に入り込みます.

これらの喩例は,唯識説の主張を裏付けるものとしては意味をなしていません.

4. MHK V 20-26でバーヴィヴェーカが批判する学説を唯識説(瑜伽行派)とする従来の解釈は以上の難点を抱えています.

まず「〈対象の現れを持つこと〉を認識手段とする」という説を唯識説の中に見出す必要があるでしょう.

また,水晶の比喩や,反射像の比喩が,外界対象を認めない唯識説を支持する比喩として用いられる先行例を見つけ出す必要があるでしょう.

いずれにも困難を伴うのではないでしょうか.

経量部説として解釈する場合には,これらの難点は自ずと解消します.




MHK Vは全体として瑜伽行派を批判する章であることは明らかです.

したがって,なぜ,突然にMHK V 20–26において経量部説を批判する必要があるのか,考えておくことは必要でしょう.

MHK V 17-19で批判されるのは夢の比喩を用いる唯識説です.

『シャバラ註』に引かれるVṛttikāra註でいうところのnirālambanaすなわち「認識が所縁を持たないこと」への批判です.

私の主張する所が正しければ,MHK V 20-26は,唯識説ではなく,ディグナーガが認める経量部説です.

唯識説が批判されたことを受けて対論者は,いったんここで,経量部説を提示してきたと考えられます.

そこで,もしバーヴィヴェーカが経量部説を受け入れるならば,唯識への移行がスムーズに可能となるからです.

すなわち,唯識が否定されたのを受けて,ひとまず,対論者は経量部説を提示してきたと考えられます.

これをバーヴィヴェーカは否定します.

すなわち,認識それ自体と,その対象としての内的な形象を立てる経量部的な考えを予め排除しておくことで,同じ内的構造を持つ「把握主体と把握対象」を立てる唯識への逃げ道を塞いでおいたと考えられるのです.

このように考えれば,ここで,バーヴィヴェーカがディグナーガの経量部説を否定することに何の不思議もないのです.

「経量部→唯識」へのスムーズな移行の構造を考えれば,バーヴィヴェーカが経量部説を封じておくことに何の疑問もありません.

「バーヴァヴィヴェーカの思想は,たとえ瑜伽行派の解釈する二分説・自己認識にたいする批判を含む点で典型的な経量部思想ではないとしても,全体としてまさしく経量部的であるといえる」(梶山1982)という発言については,まだまだ再考の余地があるでしょう.


Cf. 梶山雄一1982:中観思想の歴史と文献,『講座・大乗仏教7――中観思想』1--83.

斎藤明2008:バヴィア作『論理炎論』の識二分説批判,多田孝正博士古稀記念論集『仏教と文化』141-156

斎藤明2008:バーヴィヴェーカの識二分説批判,印仏研56-2, 134-140
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  1. 2010/03/06(土) 15:34:14|
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