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On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ジャヤンタの主宰神論証

片岡啓2010a

ジャヤンタの主宰神論証──Nyayamanjari「主宰神論証」定説部の和訳── 『哲学年報』(九州大学文学部)69, 17-69.

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本稿は先に出版した『論理の花房』(Nyāyamañjarī)「主宰神論証」章の校訂本Kataoka [2005]: Critical Edition of the Īśvarasiddhi Section of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyāyamañjarīに対応する和訳である.前稿の片岡[2009a]:「神を否定する方法:Nyāyamañjarī「主宰神論証」前主張部の読解」では敵説,具体的には聖典解釈学者クマーリラや仏教論理学者ダルマキールティなどに跡付けられる前主張部の和訳を行った.本稿の和訳は,続く定説部に対応するものである.ここで著者のバッタ・ジャヤンタ(Bhaṭṭa Jayanta: 後840-900頃)は,主宰神を認める論理学ニヤーヤの立場から神の存在論証を行う.まず『論理の花房』における主宰神論の位置付けを確認しておきたい.

カシミールの学匠ジャヤンタの主著『論理の花房』は全十二日課より構成される .項目の提示(uddeśa)・提示項目の定義的特質(lakṣaṇa)・定義的特質の検討(parīkṣā)という機能的側面から見たスートラの三分類のうち,「いっぽう私は定義スートラのみを注釈しよう」(NM I 30: asmābhis tu lakṣaṇasūtrāṇy eva vyākhyāsyante)とジャヤンタが冒頭に宣言するように,『論理の花房』が直接に注釈する『ニヤーヤ・スートラ』は,定義スートラに限定される.日課(āhnika),スートラ番号(1.1.1等) ,マイソール版の巻・頁数(I 1等)との対応は以下のようになる.

第1日課 序 I 1
1.1.1 十六句義の提示 I 12
1.1.3 認識手段の一般定義と四区分 I 31
第2日課 1.1.4 知覚定義 I 171
1.1.5 推論定義 I 282
1.1.6 類比定義 I 373
第3日課 1.1.7 証言定義 I 396
第4日課   ヴェーダ I 573
第5日課   語意論・文意論 II 3
第6日課   文意論 II 143
第7日課 1.1.9 認識対象の一般定義と十一区分 II 263
1.1.10 アートマン II 278
第8日課 1.1.11-21身体~苦 II 360
第9日課 1.1.22 解脱 II 430
第10日課 1.1.23-39 疑惑~結論nigamana II 522
第11日課 1.1.40-1.2.17反実仮想tarka~詭弁chala II 584
第12日課 1.2.18誤った論難jāti II 645
5.1.1-43 誤った論難の二十四区分 II 646
1.2.19-20 敗北の立場 II 677
5.2.1-24 敗北の立場の二十二区分 II 679

主宰神論は第三日課,すなわち,証言定義スートラにたいする注釈の中で展開される.「信頼できる人の言葉が証言である」(Nyāyasūtra 1.1.7: āptopadeśaḥ śabdaḥ)という定義スートラの字句注釈を展開した後,引き続いてジャヤンタは関連する議論を展開する.主宰神論証を含む第三日課の内容は以下のように整理できる.

証言定義スートラの字句注釈  I 396
証言が推論に還元されない別個の認識手段であること I 401
証言が「対象に触れない」ことの否定 I 412
真の自律性・他律性 I 419
錯誤 I 451
言葉の他律的真 I 481
主宰神論証 I 484
    前主張 (I 484.2-491.16)
    定説 (I 491.19-512.22)
音の無常性論証 I 513

主宰神論証の前主張と定説とは,マイソール版のI 484.2-491.16, 491.19-512.22にあたる.では何故,主宰神が「証言」(信頼できる人の言葉)にたいする注釈の中で論じられるのか.まず次のジャヤンタの言葉が主宰神論証の位置付けを物語る.

また相互依存[の過失がある]と[§2.4で]語られていた――[信頼できる]人[の一種である神]が語ったのでヴェーダは正しい認識の手段であり,ヴェーダが正しい認識の手段であることから,[ヴェーダに説かれる]人(=神)が証明される,と.それも正しくない.既に[主宰神論証§3.9.1.1において相互依存の過失は]排斥したからである.推論に基づいて[大地などの]作者が論証された上で,ヴェーダの諸文が彼についての[我々の]理解を補強すると[我々は]考えているのであって,作者の理解は聖典だけに依拠するわけではない.また既に以前にも[主宰神論証において],大地などという結果によって作者の推論されることを[私は]述べた .

ここから分かるように,まず,聖典ヴェーダと独立して,大地などの結果から世界の創造主である主宰神が推論により論証される.したがって全知者である主宰神の存在をヴェーダの記述のみに基づいて理解する必要はない.ヴェーダにおける創造主の記述は,神の性格に色付けを与えるものではあるが,その存在を本質的に裏付けるものではない(§3.9.1.1.).
次に,このようにして推論された大地等の作者である主宰神が,ヴェーダの作者と同定される.そのことをジャヤンタは続いて次のように述べる.

【問】大地などという結果を創り出したのと同じ作者が,ヴェーダの創作を創り出したのか.
【答】その通りだ,と答えよう.
【問】その根拠は何か.
【答】と,もしいうならば,
答える.生類が業果を受けるための拠り所であるこのような多様な世界を,非全知者は決して創造し得ない.その[生類の]業と果の関係を知る者である同じ彼が,それ(業と果の関係)を教示するヴェーダを著したのである.したがって,他の者が想定されることはない.また一つのものだけで目的が達せられたならば,第二のものをどうして想定しようか.というのも複数のものを想定する理由は何もないからである .

この多様な世界は,生類のいちいちの業に応じた果報享受の場としての役割を果たしている.業果の適切な配当を監督するのが創造主たる主宰神である.したがって創造主たる彼は全知者でなければならない.すなわち,瓶等とは異質の結果である大地や山等の作者として推論される者は,陶工を始めとして我々凡人とは全く異質の全知者である.いっぽうヴェーダにも作者はいるはずである.すなわち「ヴェーダの創作は作者を前提とする.創作だから.世俗の創作と同じように」(NM I 573.7—8: vaidikyo racanāḥ kartṛpūrvikāḥ, racanātvāt, laukikaracanāvat)と推論される.いまヴェーダは業と果報の関係を教示する.例えば祭式と天界との関係を教示してくれる.このような知識は通常の知覚をもってしては不可能であり,全知者にのみ可能である.したがって異質なヴェーダの作者として異質な全知者を想定しなければならない.ところで,すでに全知者としては大地などの創造主たる主宰神が想定済みである.したがって,彼をヴェーダ作者にあてれば,別個に全知者を想定する必要はなくなる.

大地等――(推論)→ 全知者たる作者
                ‖(同定)
ヴェーダ――(推論)→全知者たる作者

 このような理解は,ジャヤンタ一流のスートラ解釈に適用される.ジャヤンタは,スートラのāpta(直訳すると「[対象に]到達した人」)を注釈する中で,ヴァーツャーヤナの挙げるāptaの三条件を列挙する(NM I 399.20-400.12).

1. 対象を知覚などで正しく認識した人
2. その通りに教示しようという欲求に突き動かされた(部分的)離欲者
3. 説示能力のある人

これがスートラの第一解釈(バーシャ説)にあたる.第二解釈では,この三条件をまとめて「過失の消滅」(doṣakṣaya)とする.すなわち,言葉の偽(ひいては聞き手の認識の偽)を引き起こす過失(doṣa)を持たない人がāptaであるというのである.言い換えれば,第一解釈は「美質(guṇa)を持つ人」という肯定的側面から,第二解釈は「過失を持たない人」という否定的側面からāptaを捉えたものと見なしうる.最後に第三解釈としてジャヤンタは次のように述べる.

あるいは,[ニヤーヤ・スートラという]論書は,ヴェーダが正しい認識の手段であることの論証を目的としているのだから,それ(ヴェーダ)の著者であるāptaとしての主宰神について,これ(スートラ1.1.7)は,文字通りの定義である.彼(主宰神)はダルマを目の当たりにした人に他ならない.というのもダルマは主宰神の知覚対象だからである .

「文字通りの」(yathāśrutam eva)とジャヤンタが述べるように,証言定義スートラは,ヴァーツャーヤナ流に直訳すると「到達した人(=ダルマを目の当たりにしたなどの三条件を満たす人)の教示が[正しい]言葉である」となる.証言定義を世俗言明にも通じる一般定義とする第一解釈・第二解釈では,āptaを第二義的に解釈する必要が生じる.ヴァーツャーヤナの言うsākṣātkṛtadharmāを,ダルマに限らず広く「対象」を「目の当たりにした」すなわち「正しく認識した」と解釈し直さねばならないのである(NM I 400.1-4).しかし証言定義をヴェーダの真を論証するものと解釈するならば,āptaはヴァーツャーヤナの言うように「ダルマを目の当たりにした人」すなわちダルマを直接知覚した主宰神と受け取ることができる.また,慈悲深く完全な離欲者であり,また,ヴェーダの教示者である主宰神は,第二・第三の条件も満たす(NM I 401.5-6).
 このようなスートラ解釈は,ジャヤンタのニヤーヤ観に基づくものである.片岡[2007b][2008]からも確認できるように,ジャヤンタはヴェーダを中心としてバラモン教学の十四学処(vidyāsthāna)を配置し,仏教徒などの反ヴェーダのセクトからヴェーダの権威を守る一種のボディーガードとして論証学であるニヤーヤを位置づける.この論証の核にあたるものとして,証言定義スートラは再解釈可能なのである.ヴェーダが正しい認識手段であるのは,最高のāptaである主宰神によってそれが著されたからである.
 
 和訳にあたっては,本文理解に直接に関わる情報のみ注に記した.クマーリラやダルマキールティを念頭に置いたジャヤンタの議論について,思想史的観点から詳述することは避けた.了とせられたい.なお校訂本において取り上げなかったNyāyavārttikaについては補足的に関連個所を注記で示した.本文解釈にあたっては,2004年夏,ポーランドのザコパネで行ったサンスクリット合宿の集中読書会にて友人諸氏からの助言を得た.記して感謝する.主催の労を取ったMonika Nowakowska(ワルシャワ大学)に特段の謝意を表する.


科文
3 主宰神論証
3.1 理由は不成立ではない
3.1.1 結果性は不成立ではない
3.1.1.1 チャールヴァーカの見解
3.1.1.2 ミーマーンサカの見解
3.1.1.3 仏教徒の見解
3.1.1.4 総括
3.1.2 形状に限定されていることは不成立ではない
3.1.2.1 形状の違い
3.1.2.2 反論の排斥
3.1.2.3 共通性
3.1.2.4 言葉だけが共通なわけではない
3.1.2.5 全面的に相似なわけではない
3.2 理由は不定ではない
3.2.1 木などの作者は見られ得ないものなので把捉されない
3.2.2 見られ得ない作者を想定することの適切さ
3.2.3 論者の意のままに主題に含めるわけではない
3.2.3.1 主題の否定とそれへの回答
3.2.3.2 主題の述定
3.2.3.3 異類例の可能性が疑われるものに理由があること
3.2.4 大地などによる逸脱はない
3.2.4.1 遍充把握の様相
3.2.4.2 実在のあり方からすると異類例となるということはない
3.2.4.3 まとめ
3.3 理由は特殊について矛盾していることはない
3.4 理由は〈時機を過ぎて示されたもの〉ではない
3.5 理由は〈敵が存在するもの〉ではない
3.6 理由は〈引き起こさないもの〉ではない
3.7 まとめ
3.8 他の推論の紹介
3.9 特殊の理解
3.9.1 その認識根拠
3.9.1.1 聖典に基づく
3.9.1.2 否定的にのみ随伴する理由に基づく
3.9.1.3 主題の属性であることに基づく
3.9.2 主宰神の認識
3.9.2.1 全知者性
3.9.2.2 認識の常住性
3.9.2.3 認識が単一であること
3.9.2.4 認識が知覚であること
3.9.3 他の性質を持つこと
3.9.4 主宰神の欲求
3.9.5 まとめ
3.10 主宰神の身体の考察
3.11 主宰神が運動を持たないこと
3.12 創造の目的
3.13 遊戯を目的とすること
3.14 主宰神が慈悲深いこと
3.15 業の考察
3.16 業の監督者
3.17 創造・帰滅の想定は適切である
3.18 業の必要性
3.19 主宰神性は失われない
3.20 まとめ

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  1. 2010/04/21(水) 20:09:04|
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