Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

唯識批判と解脱

ジャヤンタの唯識批判については,Kataoka 2003fの校訂本,および,片岡2006aの和訳があります.(ダウンロードはこちら

唯識批判といっても,ここでの焦点は,いわゆる形象論にあります.

つまり,目の前にはっきりと見えている形象(青い色や牛の姿)が,いったい,外界対象に属しているのか,あるいは,内なる認識に属しているのか,という問題です.

バラモン正統派のニヤーヤやミーマーンサーは外界実在論に立ちます.

外界対象が形象をもちます.

そして,認識は,そのまま対象を把握します.

認識自体が質的に変化するわけではありません.

対象の姿をそのまま映し出すだけです.

認識が対象の形象を持つのではなく,あくまでも,外界所属の形象を「見る」だけです.

これにたいして,仏教(経量部や唯識)では,我々が見ているのは,認識それ自体のうちにある形象だといいます.

我々は決して外界を直接に見ることはないのです.

我々が見ている牛の姿は,実は,認識のうちに焼きついたイメージ,形象にすぎないのです.

経量部は,外界の形象と内的形象が「似ている」と考えて,外界対象の実在性を疑いません.

しかし,直接に認識できない外界を認める必要はありません.

それどころか,原子論などに明らかなように,外界対象というのは,あきらかに不合理です.

このように主張して唯識は,経量部説から一歩進めて,外界対象を否定し,全てを認識の中だけで終わる話とします.

認識内の劇場で全てが完結します.

刹那滅で静的な認識は,客体の側面も,主体の側面も,同時に取るのです.

結局,認識は,自分で自分を認識する「自己認識」に終わるということになります.

外に向かって働くことがないのです.

「対象の姿を捉える」などというのは,比喩的な表現にすぎません.

「捉える」という動態は,実は,認識にはないのです.

そこにあるのは,内的形象を抱えた認識が輝くだけの,自己認識の世界です.

さて,ニヤーヤ学派のジャヤンタが展開する唯識批判.

ジャヤンタの著作は,もちろん,ニヤーヤスートラへの註釈です.

というわけで,唯識批判といえども,註釈のいずこかに属することになります.

ジャヤンタは,NS 1.1.22の解脱スートラで唯識批判を展開しています.

しかし,解脱と唯識批判と,何の関係があるのでしょうか?

解脱については,様々な意見がありますが,大雑把には「苦しみが滅した状態」のことを指します.

苦しみをなくす方法としては,行為(儀式・苦行)もありますが,ウパニシャッドに明らかなように,知識,知恵というのが,インド哲学の主流な考え方です.

知識によって救われるというのです.

しかし,何の知識でしょうか?

何を知れば苦しみがなくなるのでしょうか?

これについても,もちろん,諸説紛々.

ニヤーヤ学派のジャヤンタは,アートマンについてよく知ることだ,と考えます.

ここでいうアートマンとは,我々一人一人がもっている個我のこと.

つまり,霊魂であり永遠不滅である個我・アートマンについて正しく知れば,苦しみがなくなるというのです.

「己をよく知れ」ということです.

この「己」は,多元論に立つニヤーヤ学派では,もちろん,一つではなく多数です.

生き物の数だけアートマンがあります.

しかし,ウパニシャッドよろしく,インドには,一元論の考え方もたくさんあります.

「不二論」(アドヴァイタ)が,その代表です.

有・知・喜を本質とする梵・ブラフマン(=アートマン)という一元に全ては還元されます.

一元であるブラフマンを知れば救われる,究極的に幸せになれる,というのがアドヴァイタ神学の考え方です.

「ブラフマン一元論」です.

実におめでたいことです.

一を知って十を知るどころか,全てを知ることができるのです.

ウパニシャッドの時代に見るように,人間だれでも楽したがりです.

「お手軽に解脱」のファストフード店かコンビニです.

いっぽう,文法学者・言語哲学者のバルトリハリは,一元を「言葉ブラフマン」だと考えます.

「言葉一元論」です.

言葉を本質とするブラフマンが世界として展現していると考えるのです.

実は,唯識も,一元論という点では同じ見方を取るといえます.

つまり,我々が見ているこの世界は,認識,心が作りだしたものに他なりません.

したがって,唯識の考え方は「認識一元論」といえます.

ジャヤンタが,一元論批判の文脈で唯識批判・形象論を展開するのには,こういう背景があるのです.

彼の締めくくりの言葉はいかしています.

sa eṣa buddhiśūnyānāṃ śūnyavādaparigrahaḥ/
pratāraṇaparāṇāṃ vā na tu tattvārthadarśinām//
tasmāt parīkṣyamāṇo 'yaṃ śabdādyadvaitapakṣavat/
vijñānādvaitapakṣo 'pi gandharvanagarāyate//

(意訳)「(仏教徒ときたら)こんなふうに「空」の理論に執着しているが,そんなことをするのは,脳みそが「空」か,人を担ごうとしているかだからだろう.真理を見ているわけではない.だから,よくよく検討すると,言葉一元論などと同じく認識一元論も,蜃気楼の街みたいな[錯誤]だ.」

ちなみに,バラモン教学の側から「空の理論」といっているのは,ナーガールジュナの中観派の「自性空」の「空」ではなくして,「認識は対象を欠いている」という意味での「空」,つまり,ヨーガーチャーラの唯識にいう「空」のことです.

「認識が対象を欠いているという空の理論(唯識説)みたいな馬鹿な説を唱えるのは,頭(認識)が空っぽの人だ」

「認識が(対象について)空っぽといってるけど,空っぽなのはお前の頭(認識)のほうだ」

というわけです.

あるいは,頭が空っぽでなければ,金儲けのためだろう,というのがジャヤンタの批判です.

頭がいいのは認めるとしても,ゴージャスな僧院に住みながら「熟した果汁」(酒)と「浄肉」をエンジョイするエロ坊主という当時のインドのステロタイプな仏教徒像からすると,ジャヤンタの本音は後者でしょう.
スポンサーサイト
  1. 2010/05/30(日) 10:54:57|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する