Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

仏教「学」に必要な視点



日本の仏教学の厚みには驚くべきものがあります.

しかし,仏教学者はもちろん多くが仏教徒,そして,僧侶です.

サンスクリット原典へのアクセスが可能となった明治以降も,研究の焦点は仏教論書にありました.

仏教徒のメンタリティーからは,外道の論書を読むことは,心理的に最初からシャットアウトされています.

読誦に功徳がないのだから当然です.

(そういえば明治時代も,仏教徒が敵対説の耶蘇教を学ぶべきかどうか議論がありました.)

仏教を批判するニヤーヤ論書が研究されるようになったのは最近のことです.

まして,ミーマーンサー学者のクマーリラの研究や,クマーリラに範を取るジャヤンタの研究となると,まだまだよちよち歩きです.

したがって,巷にあふれる仏教概説も,知らず知らず,仏教側から描かれることになります.

客観的な学問を標榜しているとはいえ,知らず知らずに,仏教擁護の側からのみ理論を描き出すことになるのは当然です.

しかし,理論をシャープに描き出すのは,身内の視線よりも他人の視線.

ファッションチェックと同じです.

身内の視点は甘くなるどころか,むしろ,最初から擁護にかかっています.

現代の研究者も,後代の註釈書などにべったりという態度では,うまく騙されること必定です.

歴史上存在する註釈書というのは,擁護精神の塊だからです.

ある説を正当に,そして,3Dよろしく立体的に描き出すには,異なる二つの眼が必要です.

仏教を批判する側からの視座が重要となるのです.

よくありがちな誤解は,「外道は,批判しやすいように,仏教説をゆがめて再説しているのではないか」というものです.

これは当たりません.

討論のルールにおいて,まず,相手の説を忠実に再現することが求められています.

ジャヤンタの戯曲『宗教の空騒ぎ』でも,主人公のサンカルシャナは,仏教僧ダルモッタラに,自分の仏教理解が正しいかどうか,ちゃんと確認しながら議論を進めています.

正当に再現したうえで,自由に批判するのです.

再現の部分は正しいのです.

これにたいして弟子筋の註釈者は,「自分の師匠が仰っているのは,実は,そうではないのだ」というように,伝統を自分に都合よく変えていきます.

つまり,昔の説をゆがめるのは,敵ではなく味方の弟子筋のほうなのです.

敵側の再説という鏡に映し出された自説を学ぶことの重要点は,ここにあります.

仏教認識論を理解する上で,クマーリラやジャヤンタといった澄んだ鏡が必要となるわけです.

仏教学が仏教「学」であるために必要なことについて,いま一度,考え直す必要があるでしょう.
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  1. 2010/05/30(日) 11:42:26|
  2. 未分類

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