Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

インド古典学者は何を追及すべきか?

「喫緊の課題」という言葉があります.

「社会の緊急の要請に応えよ」という周囲からの促しです.

もちろん周囲の要請を「要請」として受け止めるのは本人次第です.

そこには,(KYを回避し)「場の空気を読む」という能力が必要とされるでしょう.

「場の空気を読む」とは「流れに乗る」ことです.

例えば行列を見て,そこに並ぶのも同じ心理です.

そこには「他人に遅れてはならない」「並ばなければ損をする」という焦り,機会を逃すことから想定される喪失感,昔に乗り遅れたことの後悔から来る敗北感の想起があります.

「乗り遅れるな」というのが合言葉となります.

人間がこれほどまでに「平等」(他人と同じであろうとすること)を追求するのは「乗り遅れたくない」からです.

本来「自由」であるはずの人間は,「平等」という心理的足枷が故に不自由になってしまいます.

他人に遅れたくない,他人が得をするのを黙って見過ごせない,自分だけが損をするのではないか,という焦りこそが「平等」を求める人間心理の本源なのです.

しかし,考えれば分かるように,各人は本来「自由」であるが,別に(「全く同じ」という意味での)「平等」ではありません.

皆が同じラーメンを食べる必要はないし,同じ人民服を着る必要はないのです.

千差万別,脳の構造も各人各様です.

それぞれが,それぞれ自由に,各人の人生を歩めばいいのです.

他人がラーメンの行列に並ぶのは,それは人の自由.

自分にとり,ラーメンを食べることが「喫緊の課題」となる必要は全くないのです.


学問の世界にも「流行り・廃り」があります.

学会の潮流であり,トレンドです.

それに乗り遅れまじとパネルが組織され,社会の要請に応えるための「問答」が繰り返されます.

それは,学問分野によっては重要なことです.

まさに喫緊の課題,現代の要請に応えることが,その学問に求められていることならば,当然,その所期の目的を果たすべく,流れに乗るべきでしょう.

現代社会を研究するならば,理の当然,現代の要請に応えねばなりません.

「今ここ」が主戦場となるからです.

切り口は人それぞれであっても,自分だけの課題設定というのは意味をなしません.

ここにおいては,祭りよろしく,一箇所に殺到して祭りを盛り上げる必要があります.

祭りの後は,また次の祭りのことを考えればよいのです.

そこにおいて(我執という意味での)「自主性」は重要ではありません.

自分の変化よりも他人の変化に付いて行く方が,「現代」を求める中では重要なのです.

なぜならば,現代研究においては「今ここ」が問題であり,刻々に変化する社会要請に応える必要があるからです.

そうであればこそ,同じ場所に留まり続けようとする「停止しようとする安穏の慣性」という人間の怠惰な心性に安住することは許されません.

惰眠を貪らず,眼を開いて,祭りに参加すべきです.

それが本人の能力を更に高め,各人の成長を促すことでしょう.


しかし古典学において問題なのは「今ここ」ではありません.

古典学にたいして「現代社会からの要請」などというものは存在しません.

あるいは存在するとすれば,それは,古典の智恵を引き出すことです.

それは「今ここ」の喫緊の課題から導かれるものではありません.

「流行り・廃り」を追い求める中で,古典の妙味が引き出されることはないのです.

それは的外れな態度と言わざるを得ません.

なぜでしょうか.

古典が提供するのは,今も昔も変わらぬ人間の知恵,心理の真理,同じ人間の姿,間抜けだったり賢明だったりする鏡に映った自分の姿であり,客観視を可能にする写し絵です.

古典に対しては「変わらぬもの」を求めるべきであって,刻々と移り変わる「変わるもの」を求めるべきではないのです.

つまり,流れに乗る必要はないどころか,現代の流れという表層流は,むしろ古典の提供する底味を無視し台無しにしてしまうのです.

表面の流れに踊らされるならば,我々の眼は曇り,古典が語りかける深奥に到達し,人間の内奥の真実に耳を傾けることはできません.

問わず語りに聞く,古典を虚心に読むという行為は,(現代の要請に従って古典を歪曲しようとする)恣意的な解釈を排します.

学ぶべきは「変わらぬもの」です.

したがって,古典学においては,各人が各様に,そして,膨大な文献の各分野で,それぞれ自由に課題を設定し,人間の知恵を引き出して,社会に還元すべきなのです.

それこそが,社会的要請に真の意味で応え,社会への恩返しとなるでしょう.

目先の「課題」とやらに踊らされることは,結局,社会の役に立たないことになります.

「時流に乗った古典研究」などというものがあったとして,それは,結局,いつか時代遅れとなってしまいます.

「昨日のニュース」が役立たないのと同じように,賞味期限がすぐに来てしまうのです.

トレンディ―俳優も,旬を過ぎれば,ギャグにしかなりません.

「トレンディ―」はすぐに「古臭く」なるのです.

それがトレンドの本質です.

焦燥感から人間は行列に並びます.

しかし,古典学者が追及すべきは,流行り廃りのお祭り騒ぎではないのです.

それぞれが各人のニッチを静かに堅実に追及すべきです.

同じ所に殺到する必要はないどころか,それは,結局,社会のためになりません.

「喫緊の課題に応えること」という急ぎ足は,古典の世界においては,結局は,無駄足に終わることでしょう.

急がば回れです.

自分だけの「隙間産業」「ニッチ」こそが,実は,古典学の生きる道であり,迂遠に見えて,しかし,社会還元の真の道なのです.

「新たな価値の創造」は,その創発の瞬間において,決してトレンディ―ではなかったということを思い起こす必要があります.

仏教も釈迦の当時は新興宗教でした.

後追いからは何も生まれないのです.

「流れに乗ろうとすること」は,インド古典学においては,むしろ有害な心的態度ということになります.
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  1. 2010/08/26(木) 05:35:45|
  2. 未分類

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