Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

伝バーサ作『カルナの重荷』解説(1)

1. 解説
ここに和訳するBhāsaに帰せられる戯曲Karṇabhāra(カルナの重荷)は,T. Gaṇapati Śāstrīが1909–10年にマラヤーラム文字の写本を発見,1912–15年に連続して出版された十三戯曲のうちの一つである . (Bhāsa劇については辻直四郎『サンスクリット文学史』(岩波書店277)22頁以下参照.)

1. Svapnavāsavadatta
2. Pratijñāyaugandharāyaṇa
3. Avimāraka
4. Cārudatta
5. Pratimā
6. Abhiṣekanāṭaka
7. Pañcarātra
8. Madhyamavyāyoga
9. Dūtavākya
10. Dūtaghaṭotkaca
11. Karṇabhāra
12. Ūrubhaṅga
13. Bālacarita

このうち7–12は大叙事詩Mahāhārataに取材したもの.Svapnavāsavadattaで有名なBhāsaの年代については俄かに決定はできないが,Kālidāsa (後400年頃) が有名な詩人としてBhāsaの名を挙げるので,それ以前であるのは確かである.Aśvaghoṣa (後100年頃) とKālidāsaの間に置くとすると,後300–350頃に,ひとまず措定できる(辻『サンスクリット文学史』24頁参照).また,これらの戯曲群は,Bhāsaの原作が,ケーララの寺院付きの劇団により上演された際に用いられたものであり,原作の面影を伝えながらも,適宜改変を経ていると考えられる.

タイトルのKarṇa-bhāramは『Karṇaの重荷を[主題として]持つ[劇]』という意味である.ここでいう「重荷」とは,Karṇaが生まれながらに身に着けている耳環と鎧を直接には指す.Indra扮するバラモンに布施せざるを得なくなり,戦いを前にしてKarṇaは,それらを身から離すことになる.同時に「心の重荷」も指す.「Yudhiṣṭhira以下はお前の弟なのです」という母Kuntīの言葉から,Karṇaは,弟達を殺してはならないという重責を負うことになる.Kuru族側の大将としての責任と,しかし,その重責を果たすことができない逆の重荷.「お前の武器はいざという時に役立たずとなれ」という武芸の師範であるParaśurāmaによる呪いは,戦いに出立するKarṇaの心に重くのしかかっている.
  1. 2017/08/12(土) 09:25:09|
  2. 未分類

集中講義: 南アジアの芸能(北田信大阪大学准教授)



現代文化論D
講義題目  南アジアの芸能
大阪大学大学院言語文化研究科 准教授 北田 信
開講時期 8月7日(月)~8月10日(木)

南アジアで行われている芸能(音楽・舞踊・演劇)を切り口に、過去から受け継いだ伝統と現代の芸能娯楽文化との繋がりを理解し、それによって現代南アジア社会を理解する。南アジアの芸能を扱った動画や音源を紹介するだけでなく、南アジア歌謡の歌唱法の初歩を受講者に実際に実践してもらう。(西洋音楽の知識がなくとも受講可能である。音楽初心者も歓迎である。) さらに伝統文化が生まれてきた背景となる歴史・社会について、様々な文献資料を用いながら理解を深める。音楽・舞踊を視覚的に表現した美術(絵画・彫刻)をも紹介する。具体的に扱う地域は、ネパール・インド・パキスタンである。

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~syllabus/cgi-bin/table-odd.cgi?thisyear=2017&num=2911354&show=S1210000&big=B00000&each=1

106SouthIndian3201943253490534q



大学院の授業で「現代文化論」という教養的な共通科目があります.

その一つの枠で阪大准教授の北田信さんが来てくれました.

15回の集中講義

月曜から木曜までびっしり.

内容はインド音楽とそれに関連する南アジア文化全般.

彼は言語が達者で,ドイツ,フランスはもちろん,サンスクリット,プラークリット,ベンガーリー,ヒンディー,ペルシア,最近では,ネパールのネワール語(ネパール語とは全く別物)まで何でもござれ.

博士ではドイツのハレにてインド医学文献に出てくる音楽理論で博士号.

そして現在,阪大外国語学部(むかしの大阪外大)のウルドゥー語の先生(准教授).

で,彼の興味関心のど真ん中にあるインド音楽について,理論の基礎から,現代の諸相まで,時に深く,幅広く,解説してもらいました.

地域は,北インドのヒンドゥスターニー音楽のみならず,南インド,ベンガル,ネパール,パーキスターンまで.

最近はフィールドワークも熱心に行っておられ,そのビデオも見せて貰いました.

Youtubeにある豊富な貴重も縦横に駆使されていました.

私もまめにチェックして授業に取り入れるようにしないと...

授業の仕方という点でも勉強になりました.

そして,該博で正確な言語的知識.

インド諸語での原語の綴りがぽんぽんと.

ほんとに鬼才です.

印哲からは,単位は不要ですが,S君,M君の他,学部のKさん,Hさんが(可能な範囲で)出席.

インド音楽,基本的な要素が南アジアの各地域にヴァリエーションとグラデーションと混淆をもって広がり残っているというのがよく分かりました.

難しいことを優しく喋る,北田先生の解説のうまさが光る授業でした.

ベンガルのArnobも紹介.

https://www.youtube.com/watch?v=Z9aRXKdydHs

いいもの教えて貰った一週間でした.
  1. 2017/08/06(日) 18:46:15|
  2. 未分類

बाजेको सेकुवा हाउस

BSH 032
BSH 042
BSH 035

ちょっと寄ったところ,店主に「三階にあがってあがって」と誘われるまま上にいくと,そこは,異空間.

ネパールから呼んだのでしょう,プロのミュージシャンが歌って,ネパール人の家族が聞いてました.

さらに二階のカラオケルームからは,すっかりできあがった様子のネパール人の若者も参加.

踊り狂ってました.
  1. 2017/08/06(日) 00:30:46|
  2. 未分類

क्याम्पस खोल्न

BSH 017

高校生が訪問に来るオープンキャンパス.

むかしは九大もなかったのですが,いまや,行事化してます.

毎年,この日はかんかん照り.

年々,全体の訪問者数が増えている様子.

そのせいで,印哲まで人が来るようになりました.

インドで購入したおでこシールをお土産に配布.

他研究室の様子を見に行くと,〇〇学はかき氷,〇〇学は発掘した実物の資料,〇〇史はスライド上映.

〇文の呼び込み女子は浴衣姿.

社会学の井上君がスタンプラリーの用紙とスタンプを作ってくれたので,高校生が「社会学→倫理→印哲」と,スタンプを求めて流れてきてました.

コミュ力高い二人が主に高校生に対応.

昼食時は研究室でカレーランチ.

OGのTさんも現役のSさんも,高校生の時に訪問しにきて,その後,本当に印哲に入ってきましたから,宣伝効果はあるようです.
  1. 2017/08/06(日) 00:27:06|
  2. 未分類

Spice Road between 2013-14

スパイスロード 001 (2)スパイスロード 002スパイスロード 003 (2)スパイスロード 002 (2)スパイスロード 001スパイスロード 003

スパイスロード 009
  1. 2017/08/05(土) 08:01:22|
  2. 未分類

九州大学フォトコンテスト

https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/events/view/315

昔の写真を見返しながら,何点か応募.(一部門3点までで,風景と事象の二部門)

2008年の六本松の九大祭,箱崎でのオープンキャンパス

2009年と2014年の文学部卒業式

六本松,向かって右側は,今現在,ただのマンションになっています.

ほんと,頭絞って,有効活用されてますね~~~~~.

箱キャンの運命も似たようなものになるのでしょうか.

元寇防塁跡も出土したり,ヒ素も出てきたり,いろいろ出てきて大変です.

甘露も猛毒も出てくる乳海攪拌みたいなものです.

卒業式2 727伊都祭2010 019伊都祭2010 018卒業式 083伊都祭2010 038伊都祭2010 030IMG_7301.jpgDSC05471.jpgDSC_0357.jpg2-3.jpg伊都祭2010 0142-1.jpg1-3.jpg1-2.jpg1-1.jpg2-2.jpg

六本松 025

九大祭,九大ジャズ研にて,照屋カルテット.

1-2.jpg

六本松の過去↑と現在↓.

IMG_1018.jpg
  1. 2017/08/04(金) 19:25:11|
  2. 未分類

虫食い写本を写した結果

C2.jpg
mā tra [m]e vā va

虫食いのある上の写本を書写した結果が下の写本になったと思われます.

C1.jpg
mā tra ve vā

虫食いの[m]のところを飛ばして読んでしまっています.

二写本は親子と見て間違いないでしょう.
  1. 2017/08/02(水) 23:04:04|
  2. 未分類

Irrtümer mit Substrat, Irrtümer ohne Substrat

Schmithausen 1965:149:
Ich werde im folgenden den Gegenstand, welcher bei den letztgenannten Arten von Irrtum der Erscheinung zugrunde liegt, also z. B. die Perlmuschel beim Silberirrtum, im Anschluß an den Sprachgebrauch der späteren indischen Theoretiker als "Substrat" (adhiṣṭhānam) bezeichnen und diejenigen Irrtümer, bei denen sich ein solches Substrat vorfindet, "Irrtümer mit Substrat", die anderen "Irrtümer ohne Substrat" oder "substratlose Irrtümer" nennen.



インドの「知覚の錯誤」論で我々が最も注意すべきは,シュミットハウゼンも指摘する,「基体のある錯誤」と「基体のない錯誤」との区別でしょう.

ここから多くが派生的に導出されていきます.

基体と属性という枠組みで物事を分析しようとするインド哲学の一つの特徴的な思考法は,錯誤論にも一貫して見られるわけです.
  1. 2017/08/02(水) 21:37:58|
  2. 未分類

pratyabhijñā








路地から見た山の緑の広がり方、石段、道幅、壁、どこか似た雰囲気を保っています.

店内も,土間と小上がりの二層構造.

そして,Officeと書かれたドアの向こうには二階への階段が隠れていそうです.

遠い記憶の中にあるのと同じ構造.

後で確認すると,やはり,そうでした.

この家ーーーお好み焼き屋になる前のーーーに来たことがあります。

2000年頃でしょうか.

小林君とNiralambanaを読み、根本君の家に泊まったのも、この前後でした。
  1. 2017/07/30(日) 18:39:21|
  2. 未分類

navamārgaḥ

NewRoadHakozaki 002

キャンパス内屋台のNさん

地下鉄駅ちかくのH

に次いで,箱キャンから三番目に近いエスニック,NR.

(あと,Mar,Dom,Sat,Him,NG,Arが続きます.)

昼の日替わり750円.

何の変哲もない,どこにでもあるような,インドカレーとナンのセットです.(これにドリンクがついてきます.)

NGにあるようなネパール料理のご飯物セットのダルバートがあればいいのですが、、、

近場にありながら半年ぶりくらいに行きました.
  1. 2017/07/28(金) 07:40:36|
  2. 未分類

西日本インド学仏教学会 第28回学術大会

日:2017年7月29日(土)
時:12:30開始

発表会場:
広島大学大学院社会科学研究科大会議室(1階)
広島県東広島市鏡山1-2-1


=================
プログラム

7月25日(土)
12:00受付開始

研究発表(発表20分、質疑15分)

12:30-13:05
千葉隆誓(広島大学大学院)
『大乗荘厳経論』第一詩頌の再検討

13:05-13:40
須藤龍真(九州大学大学院)
Nyāyamañjarīにおける疑似論証因説の構造

13:40-14:15
佐藤智岳(九州大学大学院)
Tattvasaṃgrahapañjikā最終章における「無余の知(aśeṣajñāna)」について

14:15-14:50
Ven Randombe Suneetha Thero(広島大学大学院)
On the Term dhammanvaya in the Mahāparinibbānasutta

14:50-15:00 Tea Break

15:00-15:35
安達高明(広島大学大学院)
仏陀のさとりと法身の摂持 –––『摂大乗論』註釈文献を中心に–––

15:35-16:10
中須賀美幸(広島大学大学院)
avasthāviśeṣa –––「差異」としてのアポーハ解釈の原点–––

16:10-16:45
田村昌己(広島大学)
バーヴィヴェーカの唯心説批判 –––MHK V 43-50を中心に–––

16:45-17:20
石村克(広島大学)
インド哲学における真理の対応説と整合説

17:20-17:55
川村悠人(京都大学・日本学術振興会特別研究員)
安慧釈に見えるAṣṭādhyāyī 2.3.16への新視座

17:55-18:30
杉木恒彦(広島大学)
ダーカールナヴァの聖地論を再考する –––Ḍākārṇavamahāyoginītantrarāja 50-3 の梵語校訂テキスト、日英語訳、思想史的検討–––




時刻表によれば,西条駅降りてからバス待ちの時間が22分もあります.

結構このバスが曲者です.

新幹線1時間強,乗り換え待って西条まで50分弱,そして,最後のバスが待ち時間合わせて40分弱.家からのDoor to doorだと3時間かかってしまいます.

9時に出て12時につく,という感じです.

伊都になれば,いずれ九大文も,バス直行であれ,電車バス乗り継ぎであれ,博多駅から1時間弱かかってしまいます.

世の中,交通が発達して相互の距離は近くなるはずなのですが,広大と九大は,どんどん遠くなっているのはなぜでしょうか.

ガーンディーが言うように,交通が発達すると遠いところまで通勤を強いられることになるので,むしろ不便になるという側面もあるのかもしれません.
  1. 2017/07/28(金) 06:27:29|
  2. 未分類

South Asian Classical Studies, 12, 2017

SACS12-2017


A Study of the Avadānakalpalatā and the Avadānamālās(7)
--- Chap 93 Sumāgadhāvadāna and TJAM Chap 13 ---
Okano Kiyoshi


Debate on Pleasant Sensations in Theravāda Buddhism:
From the Sutta Piṭaka to the Commentaries
Shimizu Toshifumi


Re-examination of the Transformation of the Three Self-natures Doctorine
Kitano Shintaro


A Problem of ``Something'' and Reality in Sthiramati
―― Early Yogācāra and Solipsism ――
Minamoto Juko



Genesis, Background, and Metamorphosis of Self-cognition
Kataoka Kei




On the Classification of the Śāstras in the Paramahaṃsapriyā:
On Bhāgavatapurāṇa 1.1.2
Manabe Tomohiro




Yoga Practice and Yogin's Mind:
King Alarka's Yoga in Anugītā 15 (Mahābhārata 14.30)
Takahashi Kenji




The Status of Grammar in Daṇḍin's Kāvyādarśa
Kawamura Yūto
  1. 2017/07/27(木) 08:47:06|
  2. 未分類

南アジア古典学 12号(2017年)

南アジア古典学12・2017


南アジア古典学
第12号
2017年7月


Kalpalatā と Avadānamālā の研究(7)
― 第93章Sumāgadhā 及びTJAM第13章 ―
岡野 潔
1-91


パーリ上座部における楽受の存在を巡る論争
―初期経典から註釈文献まで―
清水 俊史
93-136


三性説の思想構造の変遷についての再考察
──〈仮説の所依〉と〈遍計所執性〉との相違の問題を中心として──
北野 新太郎
137-172


安慧の「何かあるもの」と実在の問題
――初期唯識思想と独我論――
源 重浩
173-189


自己認識の生成・背景・変質
片岡 啓
191-214


Paramahaṃsapriyāにおける諸典籍の分類について
―― on Bhāgavatapurāṇa 1.1.2 ――
眞鍋 智裕
215-234



ヨーガの修行と心
― Anugītā 15 (Mahābhārata 14.30)におけるアラルカ王のヨーガ ―
髙橋 健二
235--255



The Status of Grammar in Daṇḍin's Kāvyādarśa
Yūto Kawamura
257-267
  1. 2017/07/27(木) 08:42:23|
  2. 未分類

received: two articles by Hugo David

Hugo David
Les origines du Vedānta comme tradition scolastique
État du problème, nouvelles hypothèses
Bulletin de l’École française d’Extrême-Orient, 102 (2016), p. 9-44


Les définitions de l’énoncé (vakya) ¯ dans la tradition
sanskrite : entre grammaire et exégèse
LANGAGES N° 205 (1/2017)
L'énoncé dans les traditions linguistiques : logos, vakya, kalam, oratio et les autres
Pages : 27-41
  1. 2017/07/25(火) 08:01:01|
  2. 未分類

svaśiraśchedādismṛtiḥ:自らの頸を断ち切る等の想起

幻覚や錯覚.

インド哲学ではまとめてbhramaとして扱われます.

ジャヤンタが列挙するリストからも明らかなように,伝統的に,bhramaというときには,錯誤した知覚のみを扱います.(つまり誤った推論などは論じられません.)

夢も含みます.

要するに,対象がないのに対象があるかのように働いている直接的な認識(疑似知覚)のことです.

クマーリラのような実在論者は,認識には必ず対応する何らかの実在があると考えるので,夢で見る対象も,想起された昔のなにがしかであって,単に,時間や場所などが間違っているだけだと考えます.

つまり,組み合わせがおかしいだけで,一つ一つの素材については,どこかで見たはずだ,というわけです.

ジャヤンタは,自分では体験したことのないような例まで持ち出してきます.

夢で自分の頭を断ち切る(神への一つの供養の形態)というような体験は,果たして経験したことがあるのかと反論者は問います.

Svasirascheda

これに対しては,別に自分で体験しなければならないわけではないと答えます.

どこぞの誰かが首を切るのを見たことがあればOKです.

写真はマハーバリプラムのもの.

全く無いものは認識対象たりえない,というのがクマーリラやジャヤンタの立場です.

他の極端な例として,燃え上がる水,したたり落ちる火,流れる山にジャヤンタは言及しています.

マイソール版では,

jālajvalāgaladvahnidravadravyādidarśane

となっています.つまり,

jālajvalā-galadvahni-dravadravya-ādi-darśane

と分けられるでしょうが,写本に基づく校訂から正しくは,

jvalajjalagaladvahnidravadadryādidarśane

つまり,

jvalajjala-galadvahni-dravadadry-ādi-darśane

と訂正できます.

つまり,

燃え上がる水,したたり落ちる火,流れる山,など,を見る際に

となります.マイソール版を無理に解釈すれば,

魔術の炎,したたり落ちる火,液体物などを見る際に

とでもするしかありませんが,最後の液体物は明らかに例としては不適合です.

ちなみに,ジャヤンタはカシミール出身なので,別の文脈では,雨季の地滑りにも言及しています.

prāvṛṣeṇyajaladharadhārāsāranirluṭhita eva parvataikadeśe "parvatasya khaṇḍaḥ patitaḥ" iti.

ここでは,現実的に「山の一部が落ちた」と表現されています.

非現実的な「山が流れる」という表現ではありません.
  1. 2017/07/23(日) 07:36:36|
  2. 未分類

Kei Kataoka 2016: Towards a Critical Edition of the Nyayamanjari

BEFEO102-2016


Kei Kataoka 2016f
Towards a Critical Edition of the Nyayamanjari

A review article of

Alessandro Graheli, History and Transmission of the Nyayamanjari. Critical Edition of the Section on the Sphota, Vienna, Verlag der Oesterreichischen Akademie der Wissenschaften, 2015.

Bulletin de l'Ecole francaise d'Extreme-Orient, 102 (2016), pp. 401-413. (in fact published in July, 2017, although officially written as published in 2016.)

http://www.k4.dion.ne.jp/~sanskrit/WorksJ.html
  1. 2017/07/22(土) 19:48:47|
  2. 未分類

katarat?

複数ある異読のいずれを選ぶかは,もっとも神経を使うところです.

もちろん,異読の全てを正確に記録するという準備作業があってこそ成立する高度な作業です.

よくあるインドの校訂(?)本では,異読表など,ほとんど付いてませんから,このような高度な楽しみは端から奪われてしまっています.

残念なことです.

テクストは,実際には,様々な可能性に開かれており,読みの可能性の程度も,その都度異なります.

90%こっちがオリジナルだ,という読みもあれば,五分五分の良い勝負で,どちらを選んでもいいよな,と迷わせるものも多々あります.

迷わせる異読のいずれかを裁定するのに頼りとなるのが,著者の用例や,著者に先行する,著者自身が親しんだ作品の用例.

さらには,その著者に大いに学んだ後代の人(同地方であることが分かれば尚よし)の用例です.

まずは,著者の著作を全検索して,似たような用例,ヒントになる用例を探します.

あれこれと検索の仕方を工夫しながら何かヒントになるものはないかと探します.

これで,かなりの問題は解決します.

一人の著者における語の使われ方,セットになる表現の仕方,というものには一貫したものがあるからです.

samという接頭辞が付いているのか付いていないのか,こんな細かい違いは,いくら辞書を見ても解決しません.

辞書的な意味は大して変わらないからです.

著者の用例と彼に近い用例だけが頼りです.

にしても,インド西北辺境カシミールのシャーラダー文字写本と,インド南端のグランタ・マラヤーラム文字写本が拮抗する良い読みを提供してくれるというのは,いつもながら,面白い現象です.

中インドのデーヴァナーガリー文字写本が全然頼りにならない,というか間違いだらけでむしろ邪魔なのは,いったい,どういうことなんでしょう.

数百年前の馬鹿な書写生を誰かお仕置きして欲しいものです.

良い仕事を残す,一定の水準を保つ,ということを心にとめない無知無恥の輩はいつの時代も変わらず存在するようです.

その尻ぬぐいを,数百年後の今,インドを遠く離れた日本でさせられています.

かなり人迷惑な話です.

何の因果か,前世を見ることのできる(あるいは現在の実存在を通じてその因果線上をたどって過去存在の状態を間接的に知ることのできる)一切智者にその因縁を語って欲しいものです.

或いはアガスティヤの葉に何か書いてあるのかも知れませんが,今度は,そのアガスティヤの葉の文章を校訂したくなるかもしれません.
  1. 2017/07/16(日) 23:11:52|
  2. 未分類

音による写本のコピー

昔はどのように写本をコピーしていたのでしょうか.

たまに,「音で聞き取っていたのではないか」と思わせる間違いがあります.

文字の形が全く違うが,音が近い間違いがあるからです.

書き写し間違いならぬ,聞き間違いということです.

となると,一人のscribeがAからBへというように書き写していたのではなく,A写本をX氏が読み上げ,隣でY氏がそれを写していったという図が浮かんできます.

通常多いのは,似た文字の間違いですから,一人でやっている図が浮かびますが,中には,二人組になって音で写していたというケースもあったのでしょう.

今回のケースでは,ekāvagatiが,egāvagatiになっていました.

さすがに,文字ならば,kaとgaを取り違えることはないはずです.

だとすると,一行スキップしたり,あるいは,ちょっとアイスキップしたりするのも,scribeのY氏のせいではなく,読み上げるX氏の間違いで,それを無批判に聞いていたY氏がそのまま写し,あとからX氏が「あ,間違いだった」で,Y氏が書いたところをキャンセルする,というような図も浮かんできます.

二人組の場合,X氏による読み取り・読み上げと,Y氏による聞き取り・書き写しで,間違いの可能性が二倍以上になりますし,また,二人がともに優秀であるという可能性は低く,X氏の手下がYか,あるいは,Y氏の手下がXか,という可能性も大いにあるでしょうから,劣った側による間違い混入の可能性はさらに増えると想定されます.

馬鹿な間違いのおかげで,写本の系統が分かったりしますので,間違いは間違いで有益なのですが,しかし,間違いの多い写本を相手にしていると,記録仕事が一個増えるので,「いい加減にしてくれ」と思います.

まあ,彼らも暑い無風の部屋で作業をしていたのでしょうから,集中が切れて間違っても当然ですが.
  1. 2017/07/12(水) 07:36:13|
  2. 未分類

at Nikushin

NikushinHirao1001.jpg

K先生ご一行,四人のYさん,T夫妻ほか14人.

M講師のスリランカ話で盛り上がりました.
  1. 2017/07/10(月) 19:18:58|
  2. 未分類

錯簡

かなりぼろぼろのマラヤーラム写本.

あちらこちらに欠落部がありますが,なんとか凌ぎながらチェック.

フォリオが終わって,次のフォリオに移ろうとしますが,肝心の次のフォリオが見当たりません.

隣の写真を見てもなし.

これは,一葉まるまる欠落か,と諦めかけましたが,ひとまず,近隣のフォリオの対応ページを,刊本でチェック.

一個一個,フォリオの裏と表の該当ページを調べていきます.

10葉以上見たところで,ようやくヒット.

無事に出てきました.

錯簡,勘弁してほしいです.

目が疲れました.

で,出てきてくれたのは有難いのですが,そのフォリオ,左5分の1くらい,まるまる欠けています.

また,右下も斜めに切れています.

欠けた部分をいちいち記さないといけないので,記録が面倒です.

しかし,ぼろい古い写本ほど貴重な情報源となるので,手は抜けません.
  1. 2017/07/05(水) 19:00:22|
  2. 未分類

蜜蜂の学生

蜜蜂は,花から花へと移り,蜜を集めます.

同じように,学生は,異なる文献を教える様々な先生につくことで知識を蓄えていきます.

一人の先生にだけつくならば,学問の発展はないでしょう.

アビナヴァグプタは,多くの人に習うことで,その目を養っていきました.

ひとりの師だけにつくならば,はたしてその師が優れているのか劣っているのかすら分かりません.

多くの先生に習うことで,彼らの優劣も明らかになり,また,長所・短所,得意な分野・苦手な分野も分かるというものです.

学生は,悪しきを捨て,良いものだけをピックアップすれば良いのですから,多くの人に習うということは,単に知識を集積するだけでなく,そのような相対化の視点を養うためにも重要です.




大学の先生にも二種類があります.

ひとつは,自分の指導学生が,他の先生に習うことを良しとする人.

もう一つは,自分の指導学生が,他の先生に習うことを嫌う人.(学生に全く無関心な先生は除きます.)

なぜ他の先生に習うことを嫌うのでしょうか.

私が思うに,自分が相対化されるのが怖いからでしょう.

A先生と対等でありうるB先生に習うことで,学生Xは,B先生の相対的な視点を手に入れることになります.

学生XがA先生に対して持っていた盲信・崇拝はそこで失われてしまうことになります.

「尊敬する人は誰ですか?」

という問に対して,家族以外を余り知らないうちは,「お父さん」「お母さん」と答えるのと同じようなものです.

世界の広がりを知らなければ,限られた世界の中でベストを選ぶしかありません.

そして,その世界が一つの大学の中だけに限られていれば,当然,「うちの先生が一番」ということになってしまいます.

しかし,現実には,そのようなことはありません.

ひとりの先生が身に付けることのできる知識,教えることのできる内容には限りが有ります.

論理学についてはA先生,文法学についてはB先生,聖典解釈学ならC先生,というように,人には得手不得手があります.

ひとりの人が全てをカヴァーすることはできません.

また,先生によって,取り組み方・教え方も様々です.

一つの方法・知識だけを伝えることは,生存競争においても不利になります.

引き出しに様々なオプションのあることが,今後の生き残りのためには有利です.

写本にこだわる人もいれば,先行用例を調べるのが好きな人もいるでしょう,また,哲学的考察の深みに沈潜するのが好きな人もいるかもしれません.

文献への向かい方は人それぞれ,十人十色です.

したがって,学生は,まだ若く吸収力のあるうちに(そして恥をかいても気にならない年齢のうちに),多くの人に学ぶことが重要になります.

年を取ると,人前で恥をかくことが難しくなってしまいます.

学部生の前で恥をかくのは院生には難しいものです.

まして,先生ともなってしまうと,読書会で自分の無知をさらすなどというのは,なかなか難しいものです.(しかし,新しい分野を学ぼうとすれば,誰でも最初は初学者であり「学部生」みたいなものです.)




昨今は,経費の関係で,大学における非常勤のコマ数がどんどん削られています.

どんなに所属教員が優れていようと,ひとりの先生が教えられることには限りがあります.

また,既に述べたように,異なるスタイル,さらには,生き様まで含めて,学生は相対化の視点を手に入れることが必要です.

いわば,先生についての「教相判釈」を確立することで,学生独自の視点というものが培われていきます.

相対化による独自視座の獲得.

三角測量のように,未知なるものの高さを知るには,既知の二点が必要です.

「二師に見えず」「他の先生に習うなどとんでもない」と考えている先生は,学生の機会を奪っていることになります.

人間というのは,徒党を組み,派閥を作りやすいものです.(Cf. 部派分裂)

そして,派閥というのは,他者の排除を本質とします.

ひとつの研究室に二人の先生がいると,A先生の学生とB先生の学生とで分裂が生じることがあります.

A先生とB先生との仲が悪ければ,ますますそのような傾向が助長されることになります.

ひとつの研究室に4人も教授がいるとなると,それぞれの先生毎に「A組」「B組」「C組」「D組」などと派閥分裂が起こることも考えられるでしょう.

このような分裂に意味はありません.

学生はできるだけ多くの先生から学ぶべきであり,その機会を活かすべきです.

また,大学の中に留まらず,機会があれば,国内外の他大学で学ぶよう自分を仕向けるべきです.

一箇所のぬるま湯に安穏と浸かるのは楽です.逆に,外の荒波に身をさらすのは疲れますし,慣れない分野で恥をかく危険があります.

しかし,自分の感じる抵抗が多いということは,着実に学び,成長している,ということの証左でもあります.

金と時間と機会のある内に,外に出て揉まれるべきです.

また,大学としては,そのような機会をできるだけ多く提供することが必要です.

既に述べたように,「所属教員が全部教えれば良い」という考え方は間違っています.

一人が全部教えるならば,学問の発展ということはありえないからです.

学生は,異なる複数人から多くのものを学びます.

コンビネーションの多彩さこそが,脳の中のシナプス連合の多様さを作り,その人独自のカラーを生み出すことになるからです.

非常勤の削減は,知のモノクロ化へとつながります.

「ひとりの師から学べば良い」という単為生殖では,時代の環境変化にいずれ耐えられず滅びてしまうことになるでしょう.

結局の所,人を育てるには金も時間も手間もかかる,ということです.

金を削って効率化を進めれば,数年後,数十年後に,データの数字が悪くなるのは至極当然です.

非常勤を削って良いことなんて,何もないでしょう.

昨今は,大学内の金の融通が以前よりも縛りが緩くなったので,寄付金からでも非常勤のコマ数に回すことは可能なはずです.

まだ,そのような方策をしている研究室は見たことはありませんし,そのような奇特な御仁も見たことはありませんが.

わずかに,企業の側からの寄付講座が見られるのみです.

たとえば文学部では既に,朝日新聞からの寄付非常勤枠(金ではなく講師の派遣)があります.

ひとりの教授を雇う寄付講座といった大がかりな寄付までいかなくとも,「寄付非常勤」というようなことも,今後は考えるべきでしょう.

これなら,半期15回分の非常勤を雇う数十万円の寄付があれば成立するはずです.

また,京大では,白眉や学振のPDが学内非常勤のような形で非常勤枠を担当しています.(学内非常勤なので金はかかりません.)

九大印哲でも,今年から,学振PDに非常勤を担当して貰うことになりました.(九大文学部には前例がなかったので少し手続きに手間取りましたが.)

さて,箱崎キャンパスから伊都キャンパスへの2018年夏の引っ越し,誰かが昔に垂れ流したヒ素処理に予想外の支出がかさんだせいなのか否かはしりませんが,費用も満足に出ないようで,引っ越しの前段階の書籍等の箱詰めは全て自分たちでやることになるようです.

考えただけで腰痛がしてきます.

金はなくとも工夫はできる.

「おしんの精神」で凌いでいくしかないでしょう.

足を動かす水鳥と同じ,外からは優雅に見える「世界レベルの研究水準」の水面下は,こんなものです.
  1. 2017/07/04(火) 19:35:12|
  2. 未分類

Late Dr. Akahane's articles

http://www.jits-ryukoku.net/故赤羽律氏の全学術論文/

概念史も、実は、異読の変化展開と同じ視点で捉えることができます。

すなわち、「どれが正しい理解なのか」という択一視点で問題に向かうのではなく、「どうしてこのような解釈が出てきたのか、どこから展開してきたのか」という視点です。

細々と拾ってきた様々な異読を見渡すことで、異読の展開史が見えてきます。

同じように、異なる時代の多くの著者による様々な解釈を拾って行き、最後に一覧することで、歴史的展開が浮かび上がってきます。

勝義(諦)と世俗(諦)という二諦をめぐる概念も、同じように、異なる時代、異なる学派の様々な解釈の幅を総覧、整理することで、展開史が見えてくるはずです。

パラマールタとサンブリティは、実際、人により、異なる様々な実質内容を担うに至っています。

堆積した地層をドリルし、今一度年代ごとに整理し直すことで、二諦説展開史が再構成されるはずです。



故赤羽博士の諸論文がまとめて読めるようになったのは、非常に助かります。

700年頃に活躍したジュニャーナガルバの二諦説が、彼の関心の中核にあります。

この年代は、ダルマキールティの権威がすでに確立していた時代でもあります。

仏教の外に目を向ければ、クマーリラ、プラバーカラを経て、マンダナという大学者が出た時代です。

エキサイティングな年代であることは間違いありません。




  1. 2017/06/30(金) 18:44:40|
  2. 未分類

basking coffee

  1. 2017/06/29(木) 20:01:37|
  2. 未分類

nadonel



3週間のスリランカ旅行の成果でしょうか,野菜がまた少し変化して,スリランカに少し近づいているようでした.

おまけはダルマさんから習ったチキンカレーとのこと.

いつもながら,ダルのシンプルさが良い.

お子さんは既に一歳.

キッチン内にいると勝手にものをいじるので,お客さんにあやされていました.
  1. 2017/06/28(水) 19:00:05|
  2. 未分類

印仏学会 2017

日本印度学仏教学会
第68回学術大会
会 期 平成 29 年 9 月 2 日(土)~ 9 月 3 日(日)
会 場 京都市中京区西ノ京壺ノ内町 8-1  花園大学



第 1 部会(惺々館1階 101)

9月2日(土) 午前の部(9: 00 ~ 11:40)

1. ジャガディーシャの詩論 ─詩的意味の美的知覚─ 岩崎 陽一(日本学術振興会特別研究員PD)
2. Brahmasiddhi Tarkakāṇḍa の構成と内容概観 斉藤  茜(日本学術振興会特別研究員)
3. Kuvalayacandra 出生時の惑星配置について 小林 史明(東京大学大学院)
4. ṚV X 102:「ムドガラの競争の歌」再考 里見英一郎(東京大学大学院博士課程満期退学)
5. リグヴェーダにおける心臓とソーマ 竹崎隆太郎(東京大学大学院)
6. ヴェーダ祭式における犠牲獣の殺害行為と祭式学的展開 大島 智靖(東京大学死生学・応用倫理センター特任研究員)
7. 頭部崇拝に関する一考察 伊澤 敦子(国際仏教学大学院大学附属図書館員)
8. ヴェーダ祭式 Upavasatha と仏教 Uposatha(「布薩」)における「断食」 阪本(後藤)純子(宮城学院女子大学特


9月3日(日) 午前の部(9:00 ~ 12:00)

1. 両面鏡比喩の両面性
─古典サーンキヤ映像説変遷史─ 近藤 隼人(筑波大学非常勤研究員)
2. Mudgala のエピソード─ Mahābhārata 3.246–47 の研究─ 井上 信生(大阪大学修士課程修了)
3. マヌ法典における「業と再生」の理論 手嶋 英貴(京都文教大学教授)
4. ニヤーヤ学派における三時の考察と三世実有説 渡邉 眞儀(東京大学大学院)
5. シヴァ教再認識派写本の欄外註と注釈文献 川尻 洋平(筑紫女学園大学人間文化研究所リサーチアソシエイト)
6. マドゥスーダナ・サラスヴァティーのアドヴァイタ教学における Bhāgavatapurāṇa の意義について 真鍋 智裕(日本学術振興会特別研究員PD)
7. ムンダカ・ウパニシャッドのテキストについて 間口美代子(真宗大谷派方廣寺副住職)
8. Gargīyajyotiṣa における Tithikarmaguṇa─初期の諸文献にもとづくティティ儀礼─麦  文彪(京都大学白眉センター特定准教授)
9 ジャイナ教における殺生 / 不殺生の判断基準 宇野 智行(筑紫女学園大学教授)




第 4 部会(惺々館2階 201)

9月2日(土) 午前の部(9:00 ~ 11:40)

1. ジャヤンタの擬似論証因における aprayojaka 須藤 龍真(九州大学大学院)
2. avasthāviśeṣa ─「差異」としてのアポーハ解釈の原点─ 中須賀美幸(広島大学大学院)
3. インド哲学真理論における整合知(saṃvāda)と美質の認識(guṇajñāna)石村  克(広島大学大学院博士課程満期退学)
4. 非認識論証因における否定対象と認識対象について 道元 大成(龍谷大学大学院)
5.プラジュニャーカラグプタの感官知(indriyapratyakṣa)説─ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派批判を中心に─横山 啓人(筑波大学大学院)
6. 共相(sāmānyalakṣaṇa)と普遍(sāmānya)の区別について 秦野 貴生(大谷大学大学院)
7.『タットヴァサングラハ・パンジカー』最終章における無余の知(aśeṣajñāna)について 佐藤 智岳(九州大学大学院)
8. ヨーガ行者による過去や未来の認識について 護山 真也(信州大学准教授)


9月2日(土) 午後の部(13:20 ~ 16:00)
1.『集量論』第一章における<想起>の問題 吉田  哲(龍谷大学講師)
2.『因明正理門論』過類段偈頌の原文推定とその問題点 小野  基(筑波大学教授)
3. シャーンタラクシタによる<附託の排除>の議論 石田 尚敬(愛知学院大学講師)
4. ディグナーガの転義批判 片岡  啓(九州大学准教授)
5. Trairūpya による「空」と「有」の証明をめぐって 何  歓歓(浙江大学教授)
6. 瑜伽行派と『十地経』との関係─入正性離生の用語を通して─Vo Thi Van Anh(ベトナム仏教大学講師)
7.「如来十号」解釈の一展開 ─『仏随念注』『釈軌論』とその周辺─ 堀内 俊郎(東洋大学東洋学研究所研究員)
8. 初期新ニヤーヤ学における原因の概念 ─シャシャダラの定義─ 和田 壽弘(名古屋大学教授)



うちも賑やかになって,現在,九大印哲の所属学振が四人.

ただでさえ狭い研究室の机もぎりぎりになってきました.

斉藤PD(from Kyoto),眞鍋PD(from Waseda),佐藤DC2,須藤DC1.

8月には,これに,世界での厳しい競争を勝ち抜いてRobert Ho財団のFellowshipを獲得した韓国人PD(from Michigan)が一人加わります.

みなさん,他の人の機会を奪って金をもらいながら24時間勉強できるのですから,その分,怠けることなく,きっちりと成果を発表してもらわないといけません.




昔は,博士課程に入ると,非常勤やら生活やらで忙しくなる人が多く,あるいは,修論で燃え尽きたのか,こつこつと成果を発表して業績を積んでいく人は,今より少なかった気がします.

無学の境地に達したつもりだったのでしょうか.

あるいは,修論でやったような一所懸命の勉学煩悩には戻らないという不還の境地に至るのでしょうか.

「もう勉強は止め」とばかりに,知的涅槃寂静の境地に達したかのような人を見かけたりもしました.

学部の私が質問するレベルでも,まともな答えをくれる博士・ポスドクの人はごくごく僅かでした.

今思うに,学部生相手に自分の無知がばれるのが怖かったのでしょう.

学部であれ修士であれ,皆が疑問に思うことというのは,往々にして同じで,それは,誰にとっても立派な問題だったりするものです.

授業で聞くズレた日本人の訳よりも,ヒンディー訳に書いてあるインド的理解の方が遙かに自分には勉強になりました.




さて,一昔前の印仏研,院生の発表には,修論でやったようなネタを細切れにしたり,薄くしたりして発表する,「どんどん薄くなる食塩水」のような発表,という印象を受けたものもありました.

修論のテーマを出し切ると,短い線香花火も終わりか,という感じがしたものです.

それが現在では,学振の制度により全国区での公平な競争が可能となっています.

博士論文につながる,あるいは,そこから派生する論文成果が如実に他者との差異として機能するようになっています.

若手にとり,成果発表のモチベーションが高まっているのは明らかです.

「数より質」という批判もあるかもしれません.

しかし,そもそも何も出てこなければ質も何もありません.

制度として,昔より全然ましだと思います.

退官間際のおじいちゃんの勲章みたいなライフワークものの昔の「文学博士」でなく,文系でも博士課程で普通に博士号「博士(文学)」を出すようにした制度変換の功績には大きいものがあります.

逆に言えば,博士号を今まで出していなかったということこそが,相互評価の難しい文系の学問が敬語社会において放っておくと辿ってしまう運命を示しているように思います.

つまり誰が見ても同じ数式や誰でも実証できる実験といったシンプルなfactやevidenceで決まるのではなく,その人が既に持っている地位や年齢の上下関係で決定・忖度・遠慮が為されやすかった,ということです.

しかし,言うまでもありませんが,文献学者であっても,上下関係は(勝義には)存在しません.

正しい読み・解釈というのは,科学のように一義的に決まるわけではなく,複雑ではあります――それは機械による自動翻訳の難しさを見れば分かるでしょう――が,相対的な優劣がないわけでもありません.

皆が認める「より正しい解釈」や「深い読み」というのは存在します.

そのような,研究者間の合意・せめぎ合い・調整・均衡が実現される場が学会というわけです.




昔は,もちろん金もネットもなかったからでしょうが,若手で海外との交流を(自力で)している人は皆無でした.

わずかに先生のつてで長期留学している人達だけに,海外との一箇所との交流があったのみです.(そして,そのような先輩は,海外に行ったきりですから,日本の大学にいる学生には何の縁もありませんでした.)

しかし,いまや,若手でも,欧米やインドの研究者や同世代の卵と自由に意見交換し,習い習われ・切磋琢磨の関係にあります.

海外だけでなく,国内でも交流が盛んです.

30前後の最も活きの良い若手が他校で3年間すごすというような,一昔前であれば「内地留学制度」でしか不可能であったようなことが日常茶飯のこととなっています.

そして,かつての「内地留学制度」が活用されることは,実際には,ほとんどなかったと思います.

それは,今から見れば実にしょーもない「学閥」という世俗的意識が多くの人々の心に厳然と存在していたからだと思われます.

T大のE先生は,ポスドク期にK大に行ってO先生の下で文法学を学びたかったそうですが,結局,いろいろな事情で実現しなかったと,よくこぼしていました.

時は移って今,「修士→博士→助手」という一校に閉じた旧弊の淀みの制度がなくなって,とても良かったと思います.

内輪の仲良しごっこの結果,実力無き者が去らないという可能性が多く残る制度だったからです.

tāpāc chedāc ca nikaṣāt suvarṇam iva paṇḍitaiḥ/
parīkṣya bhikṣavo grāhyaṃ madvaco na tu gauravāt//
熱することで,切ることで,こすることで,黄金のように,賢者達は,
よく吟味してから,比丘達よ,受け入れるべきである,私の言葉を,重み(尊重)からではなく.



という仏教の合理的態度は,単に教典の言明(vacas)のみならず,選ぶべき人物にも当てはめて考えるべきです.




焼いたり切られたりして鍛えられたい金の卵は,是非,うちから学振PDの応募を出してください.

ダルシャナ,仏教論理学はもちろん,サンスクリット論書の範囲内ならば,仏教でも非仏教でも,大歓迎です.

たとえば,現在の指導院生・ポスドクで私が見ている範囲は,マンダナミシュラ,後期ヴェーダーンタ神学,一切智者批判,討論術と,見事にばらばらです.

公募があっても出さないことには何も始まりません.

限られたチャンスのある内に遠慮せず挑戦すべきです.

現在所属する指導教員などの紹介は不要です.(ただし、学振への書類に際しては、指導教員の所見が必要になります。)

直接,私宛にメールください.

sukhaduhkhe same kṛtvā lābhālābhau jayājayau/
tato yuddhāya yujyasva naivaṃ pāpam avāpsyasi//
楽と苦を等しくして,得と失を,勝と敗を
そうして,戦いに備えよ.このようであれば君が罪を得ることはないだろう.

  1. 2017/06/27(火) 18:42:55|
  2. 未分類

viśvavidyālayabhojanālayāḥ

IMG_8024.jpg
Dining Hall, Selwyn, Cambridge

IMG_1980.jpg
Dining Hall, Centre, Mahidol


Dining Hall, Humanities, Kyushu
  1. 2017/06/26(月) 19:51:56|
  2. 未分類

ラグヴァンシャ 9.21-30

9.21
感官を抑制し,神々の列に加わるのに相応しい彼は,儀礼終了の沐浴で清められた高い頭を下げたのだった,雨を降らす者(vanamuce),ナムチの敵(namucer araye)[であるインドラ]だけに.

9.22
カクトゥスタ王の家系を担う彼――乞い求める者達に惜しまない者(alāghavam)――と,自生者(ヴィシュヌ)以外の,どの(kam)王に仕えたというのか,蓮を手にする(sakamalā),貞女の戒を持つ神格(シュリー)は.

9.23
かの王は,戦の先頭で,インドラ(報酬を与える者)の助っ人となり,自らの高い腕力を,矢のおかげで怖れが払われた天女達に,歌わせたそうだ.

9.24
というのも,一度ならずも,インドラ(鹿毛の馬を持つ者)の先を行く弓取りのかの素早き[勇]者により,太陽に向かう戦塵が,止められた(rurudhire)からである,神々の敵共の血でもって(rudhireṇa).

9.25
さて,偉大な帝釈天に等しいかの唯一の王に新しい花々でもって仕えるためであるかのように,春が(madhur)やってきた.大地を支える蛇と同じ重荷を持つ者(samadhuram),敬われた(añcita-)勇武を持つ者に.

9.26
霜で色を失った栴檀の芽のあるマラヤ山を離れつつ北へ向かう太陽は(ravir),日の終わり(aharviraha-)に必ず分かれる鳥(チャクラヴァーカ)のつがいへの哀れみが故にかのように,ゆっくりと進んだ.

9.27
花が生じる,それから,新芽が,その後で,蜜蜂・コーキラ鳥の鳴き声が――というように,徐々に春は姿を現わした.木々のある(drumavatīm)森の地に降りたって(avatīrya).

9.28
[愛咬の]傷で重い女の下唇に耐えがたく,[冷たい飾りのある]帯を腰より外させた寒気の一切を,太陽は,周知のように,その限りでは除きえず,わずかに為した.

9.29
優しい声の[仲を取り持つ]女友達のように,柔らかい声の(mṛduravā)託卵鳥(カッコー)の雌は,女達の最愛の男――愛により心がやられた者――を,諍いによる中断の後で,交わりが得がたくないもの(aduravāpa-)とした.

9.30
媚態を身に付けようとするかのようにマラヤの風に揺れた枝を持つ,蕾のある(sakalikā)マンゴーの蔓(細枝)は,怒りと愛欲に(kalikāma-)打ち勝った者達の心をも狂わした.
  1. 2017/06/26(月) 19:48:42|
  2. 未分類

kva kyushu kva yale




mahad antaram ity arthaḥ
  1. 2017/06/25(日) 17:17:27|
  2. 未分類

mahāghoṣakaḥ








vimānāgamane sarve maunavratadharā iva|
tūṣṇīm evāsate tatra paṭhane pāṭhane 'pi vā|
munibhāvakāraṇebhyo vimānebhyo namo namaḥ|
  1. 2017/06/25(日) 17:03:30|
  2. 未分類

Iftar in Kyushu Uni, Maidashi Campus














日本人向けの交流を兼ねた会.

のはずなのですが,司会者がなぜか英語でした.

年配の方も含め,一般の方が多くこられているせっかくの機会なのに,多くの人が理解しないであろう英語で司会進行をする意味がよく分かりませんでした.

会の趣旨を考えると,まったく的外れと言わざるを得ません.

日本語でできる人が他にいたと思うのですが,どうしてそのような運営になったのか,謎です.

その後は,東京から来られたサイード佐藤氏がラマダーンについて日本語で説明.

19:32の日没を待ってデイツ,それから,食事の開始.

料理は,Hanaとナビさんでした.

Hana
シシカバブ
サラダ
ナン
チキンティッカマサラ
煮込み
チキンビリヤニ
オレンジケーキ

ナビさん
シーフードココナッツカレー
マトンマサラとポテトカレー
ビーフムサカ
チキンタンドリケバブ
野菜ピラフ
  1. 2017/06/23(金) 21:44:21|
  2. 未分類
前のページ 次のページ

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する