Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

puruṣārghabahvalpatvaparāmarśaḥ

鰯(いわし)の美味しさは客観的には今も昔も変わっていません.

しかし,値段は,一昔前に比べると大層あがりました.

価値というものは,希少性と密接に連関しているということでしょう.

黄金も然り.

黄金が大量に作れるようになれば,黄金の価値は失われることでしょう.

同じように考えれば,人の価値(労働の対価ほか)というのも,当然,人の多少に左右されるのは理の当然です.

とすれば,居住地域での人口密度の高低により,人の価値というのも,影響を受けるはずです.

単に労働コストという金額の多少のみでなく,様々な他人への配慮においても,同様のことが言えるでしょう.

都市部における人間疎外というのは,誰しも肌身で感じています.

人口が多くなると,他人のことはどうでもよくなってきます.

ラッシュアワーの満員電車で,ひとりひとり,かえがえのない個々人のことにまで思い至れ,というほうが無理というものです.

心の働きの当然な帰結として,他人のことはシャットアウト,見て見ぬふり,ということになります.

都会の人は冷たい,というのは,そうしないと心がもたないからで,当然の心理的防御です.

そうでなければ,とっくに心が参っているでしょう.

人口密度が10倍ともなれば,逆に,個々人への配慮も十分の一という感じになって当然です.

赤の他人がどうしようが無関心(にならざるをえない)というのが人口集積地における人間の心理でしょう.


私が留学を終えて,東京に戻った後.

連絡で,「三上さんが亡くなった」との報.

マドラス大への博論も提出間近だったはず.

市内で交通事故とのこと(1998/5/28).

聞けば,バイクに乗っていたときにトラックに引かれて,そのまま亡くなったそうです.

しかも,しばらくは息があったとのこと.

その間,誰にも助けられず,もちろん救急車も来ず,そのまま亡くなってしまったそうです.

(しかも,財布もなくなっていたとの由.)

しばらくして,マドラス(チェンナイ)の新聞にも,義憤に駆られた現地の紳士が投稿をしていたそうです.

こんな冷たい街になってしまったのかと.


或る対象Xに対する人間の発動・態度には三種あるというのがインド哲学に見られる見解です.

1.積極的に取りに行く
2.積極的に捨てる・避ける
3.どうでもいいから無関心を保つ

何の関係も面識もない赤の他人については,3ということになるのでしょう.
  1. 2018/01/28(日) 23:27:50|
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テクストの入れ違い

たまに、テクストがパラグラフレベルで別の場所に飛んでいることがあります。

抜けているだけなら、「ここからここまで抜け」で注記が終わりますし、それで明瞭なので、読み手にも伝わりますが、ごそっと抜けたものが、別の場所に出て来ると、注記の方法がややこしくならざるを得ません。

単語レベルではなく、パラグラフレベルでの入れ違いは、伝えにくい。

しかも、他の場所に同じテクストがあるので、異読もチェックしようと思えばできますが、しかし、この場所には抜けているので、他の刊本や写本と同じように異読を並べて記すわけにも行きません。

如何したものか。

しかも、なぜ入れ違ったのか、その理由もいまひとつ判然としません。

まずは文脈から、いずれがオリジナルかを判断、その後に、他箇所に飛んで行った理由を考えることになります。

単純に既刊本の活字を組む際のミスかもしれません。
  1. 2018/01/28(日) 14:49:53|
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親切の対価

親切にされると,普通は,あとから「ありがとう」とでも言いそうなものです.

しかし,何の関係もないあかの他人に親切にされるという経験が少ない場合,親切にされると何か裏があって,後から金でも要求されるのではないか,という裏読みが働くようになります.

寺院でいきなりおでこに赤い印をつけられて,あとから金を要求されるのもしかり,

頼んでもいないのに,勝手にガイドをしはじめて,あとから金を要求するのもしかり,

駅構内で迷っていたら近づいてきて親切に教えてくれたかと思うと,いきなり,「教えたから100ルピーよこせ」と言われたりと.

つまり,無料の親切ということはほとんどなくて,大概,対価が発生します.

そんなことからでしょう,日本に来ているインド人にも,たまに,そんな反射行動が透けて見えることがあります.

映画音楽の大家が福岡に来るというので,市内のホールへ.

あらかじめ申し込みの人のみが入場可能.

列に加わってないインド人が,チケットありませんか,と聞いています.

聞くと,大阪から来たとのこと.

FBの友人が楽屋にいるはずだが,連絡が取れないので入れないし,かといって,入場券もないし,困ったとのこと.

幸い,私のが一枚あまっていたので,彼に譲ることに.

すると,あげたとたんに知らんぷり.

こちら側を遠ざけるかのような態度.

さっきまでとは打って変わって,赤の他人になってしまいました.

よくあることなので,私は全く気になりませんでしたが,あれを見たら,普通の日本人はびっくりでしょう.

親切にしてやったのに,と.

しかし,その裏には,上のような反射行動が働いていると考えられます.

自然にそうなってしまうわけです.

何か貰ったら,要求される前にさっさとその場を離れる.

一種の生活の知恵です.
  1. 2018/01/27(土) 13:24:12|
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南京錠

インドを旅行すると,自前の南京錠を持ち歩くことになります.

電車の中で自分の荷物を座席に固定して,取られないようにする.

また,安宿では,ホテルの南京錠ではなく,自分の南京錠をかける,などなど.

そんなこんなで,インドに何回か行く内に,南京錠をいくつも持つようになっていました.

ある時,成田からの出国.

インド人が困っている様子です.

どうやら,中に持ち込めない荷物を預けることになったが,鍵をつけてないと航空会社が預かってくれないようです.

親切心を出して,一個,スペアの南京錠を貸してあげました.

日本人なら,通常,飛行機を降りたときに向こうからこちらを探して,南京錠を返してくれて「ありがとう」の一言でもありそうなものです.

しかし,そのインド人は無視して,荷物を取ると,さっさと出て行こうとします.

「南京錠返してくれ」と言われて初めて返してくれました.

もちろん,サンキューも何もなし.

なんならこっちが悪いかのような態度です.(或る意味,予想通りなので,それはそれで楽しい経験ですが.)

自分の荷物を受け取った後は,すぐに換金所に並んだりと,やることが色々とあるのですが,その前にインド人の姿を探さないといけなかったので面倒でした.

次からは南京錠は貸さねーぞ,と思いましたが,それ以降,いまだ,南京錠を求めている人を見たことがないので,その機会を得ていません.
  1. 2018/01/27(土) 13:09:23|
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写本調査

インドで写本調査をすると,ろくなことがありません.

図書館ではさんざんな扱い.

複写願いを出そうにも,まず,所長が不在.

いても,「リストの全部は駄目」と却下.

「一回3写本まで」など

あるいは,場合によって「一つの写本の半分しか駄目」というところも.

規則もありますが,要するにその時々の所長の考え次第.

つまるところ,こちらと相手との関係が一番重要.

学問を支えようという気概もない役人体質の人がほとんどですから,やる気のないのは当然です.

無関心でもサインさえしてくれればいいのですが,性善説というよりは,性悪説を信じたくなるような人が多いのも現実です.

或いは,単に,ノーと言いたいがためにノーと言っている人もいます.

職権乱用ではないですが,職権の行使です.

つまり,自分の権力の誇示のためにノーと言うわけです.

イエスでもノーでも良い状況なら,自分の権力を行使するためにノーと言う.

そういう手合いは,実際,多いです.

そういうときは,諦めるしかありません.

そして,その所長が定年を迎えるのを,じっと待ちます.

ようやくいなくなったと聞いて,出かけていくと,今度はうってかわって親切な所長になっていることがあり,いったい,いままでの「規則」とやらは,何だったのだろうと思うこともしばしばです.

つまり,人によってルールが違う.俺様がルール,という人が多いということです.

そんなインド写本調査ですが,なかには良い思い出もあります.

インドの地方都市にある小さな研究所.

写本カタログに,ミーマーンサー関係の写本があるのが目にとまりました.

さっそく,だめもとで手紙を書いてみます.

通常,手紙を書いてもインドの場合,無視されて,そのままなしのつぶて,ということが,ほとんどです.

手紙を書くのは,あくまでも,次に訪ねていったときの話の取っかかりとして,「手紙おくったんですけど」と言うためです.

向こうも,ちょっとは心づもりができる,という程度のためです.

しかし,意外や意外,その研究所からは返信が.

金送ればOKとのこと.

さっそく,金を用意.

そして,早々に写本コピーを送って貰えました.

積み上げると30cmほどの大量の写本.

例外中の例外です.

気合いの入った研究所はさすが違います.

これがインド留学中のこと.

しかし,日本に帰国時,東京の仏青に送ったはずの写本のセットが,紛失.

しかたないので,もう一度手紙を書いて,「すいませんが,Sea Mailでインドから日本に送るときに紛失したようなので,もう一度送って貰えますか.お金は送りますので」と書くと,すぐに対応してくれて,新たな複写を再送してくれました.(当時はemailはないので,すべて手紙です.)

その後,紛失していたと思っていた荷物は,仏青の棚の上の方に安置されていたことが判明.

結局,同じ写本を2セット持つことになりました.

写本調査ではろくなことがないのがほとんどですが,中にはいいこともある,という例でした.

日本なら,手紙でのやりとりで済むことの方が普通なのかも知れませんが.

インドだと,普通に仕事・対応してくれる人がいると,神に見えます.

インドの役所は,大概,書類ファイルを左側の緑の通常ファイルと,右側の赤の緊急ファイルにまず分類して,緊急のものだけに対処します.

したがって,通常ファイルに入ってしまうと,長々と待つことになります.

むかしは,みなさん,リサーチビザを取るのに偉く苦労していましたが,あれも,書類が幾つかの役所を移動するということの他に,ファイルの分類方法が一つの要因と思えます.

せかされるまでは仕事しない.

ストレスのない仕事術といえばそうです.

地方の大学図書館に行くと,職員のみなさん,出勤してしばらくは,ゆっくり新聞読んでお茶飲んで,隣と喋ってましたから.

さて,そろそろ仕事するのかなーと思ったら,バイクにまたがって,昼ご飯を食べに家に帰ってしまわれます.

そして,夕方出てくればいいのですが,結構な確率で,「きょうは所長は午後はこないから」ということがあります.

そうなると困るので,こちらは,午前にいって,昼飯時までに何とか所長のサインをもらって,複写作業(可能な場合は撮影)に入らないといけません.

ソニー,Kawasaki,ホンダ,ひろしま,ながさき,と,あれこれと日本に関する雑談をした後に,「では,サインをお願いします」で貰えればラッキーです.
  1. 2018/01/27(土) 12:47:25|
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pṛthak pṛthak

テクスト研究において,ベストの手法というのは,実際には,それぞれのテクスト毎に異なります.

つまり,ケースバイケースということです.

何故そうなるのかと言えば,テクスト毎に,周辺状況が異なるからです.

MHKの場合は写本が一本で,しかも,写真が不鮮明.いくつかの先行研究があるが,いずれも問題が最終的に解決されているような訳でもありませんし,問題の一つ一つが詳細に論じられているわけでもありません.

この場合,写本,チベット,註釈,さらには,論理学など,様々な道具を使って,テクストを解釈することになります.

いっぽう,NMならどうでしょうか.

古いシャーラダー写本があり,また,ケーララ写本があるので,それによって直していけば,テクストの読みについては,ひとまず解決します.MHKほどに問題解決不可能というような状況に陥ることはまずありません.

また,疑惑が残る場合でも,豊富なジャヤンタ自身の他の用例から意味を探ることが可能です.

つまり,写本と用例検索で,かなりの問題は解決可能です.

解決不可能な問題という経験は余りありません.

MHKとは大違いです.

写本が揃っていれば,大概,問題は解決しますから,できるだけ写本を持っているのに越したことはありません.

ウンベーカ註であるSVTTも,問題が多いテクストです.

現行刊本は,アディヤール写本一本に依拠したもの.

しかし,これは,ベナレスのデーヴァナーガリー写本によって,かなり良く訂正可能です.

それによって,意味が通じるようになります.

したがって,素のままで読むとおかしいと思ったら,ベナレス写本をチェックする必要が出てきます.

それで何とか読めるようになるはずです.

伝統を持つインド人学者が情熱をもって取り組んでいる後期ヴェーダーンタ,例えばマドゥスーダナサラスヴァティーの著作の場合は,比較的,校訂状況はよいので,テクストそれ自体は,ひとまず,意味が通じるレベルです.

より高次の問題に取り組んだ方が有益です.

すなわち,先行する学匠たちとの解釈の違いや,あるいは,意図されている逸脱や批判について,検討することです.

たまにテクストが怪しい箇所もありますが,全体に影響を及ぼす程度のものは少ない感じです.

マンダナのVVの場合,前半の校訂は,エリオットスターンが完璧なものを出していますから,ヴァーチャスパティの註釈を丹念に読んで,テクストの意味をひとまず追う,という作業に終始するのが第一の作業です.それでほぼ意味は通じるようになります.

いわゆる,ムーラと註釈の往復運動です.あとは,マンダナ自身の説明の追跡.

前主張と後主張.

たまに,それ以外の第三者の突っ込みなどもあるので,誰がいま喋っているのかを区別する必要があります.

これが結構むずかしい.

VVを急に利用しようと思っても,そのような整理の準備がなされていないうちは,引用するのすら怖いテクストです.(後主張と思って,前主張を引っ張ってくることにもなりかねません.)

このように,対象に合わせてこちら側のアプローチ方法も変えていく必要があります.

upeyaに沿って,upaayaもカスタムする,という訳です.

Aでうまくいった手法がBでも通じるとは限りません.

MHKのような多様な可能性の追求を,NMに持ち込んだところで有害なだけです.

MHKの場合,読みに関しても解釈に関しても,あまりにも選択の幅が大きいのですが,NMの場合,より細かい作業が可能です.

斧で切る木と,彫刻刀での作業とでは異なるのは当たり前です.

また,MHKの場合でも,先行文献の用例を探ることで,より意味が限定されることがあります.

そのような努力は,先行研究においては,十分には為されてこなかったようです.

いまいちど,やり直す必要があるのは明らかです.

いずれにせよ,単に訳すだけでなく,一つ一つのヴァースの背景や意図(と自分が判断したもの)について,詳しい注記が必要でしょう.

はしごの下と上だけで,真ん中の踏ざんを抜いては,上にも昇れません.

結論を示したならば,そうした理由や証拠も注記する必要があります.

そうすることで,たとえ結論が間違っていたとしても,後の人が,より簡単に正しい結論に至ることができるようになります.

結論だけが示されても,結局,いつまでたっても沢山の結論が並列するだけの困った状況が積み重なっていくだけです.

まさに,諸氏の異論が並列することで疑惑が生じるだけの状況になってしまいます.

ダルマキールティではないですが,やはり,何らかのsvabhaavapratibandhaを示してやる必要があります.

あるいは,先行用例・平行句のように,bhuuyodar"sana的な支持例を示す必要があります.

数学のテストで答えだけ示しても点数が貰えないのと同じです.

インド論理学でいうところの「主張のみ」pratijñāmātraになってしまいます.

テクスト研究においても,「なぜそうなるのか」「なぜそう結論したのか」という過程は重要です.

引いては,それは,全体の知的な発展,進歩に資することになります.

このような視点からすると,

1.問題を避けて通る
2.問題を取り上げても,証拠や過程を抜きに,結論だけを示す
3.結論を出さずに「Aであるかもしれないし,非Aであるかもしれない」と言う

といった研究は問題です.

3の場合,ひとまず,暫定的な結論を示す必要があるでしょう.

あるいは,その確度の差を示してやる必要があるでしょう.

9割Aだが,1割非Aなどと.(つまり,非Aの可能性は低い.)

5分5分なら,その理由を示してやるべきです.

Aまたは非Aというのは,情報量としては,出発点と変わりません.

出発点に戻るというのは小説なら円環で格好いいですが,論文でそれはないでしょう.

ミーマーンサーにおけるutpattividhi, niyamavidhi, parisa.mkhyaavidhiというvidhiの三分類を応用すれば,

1.新たな資料や問題の提示(また新たな視点)
2.既に扱われた問題をより限定,精緻化
3.他解釈の排除

といったものが,オリジナルな研究,すなわち,情報価値を持つ研究となるはずです.

新たな情報を取り出し,それを精緻化し,限定を加え,他の可能性を排除していくこと.

木を切り出して,それをどんどん削って,きれいな仏像に仕上げる作業と同じです.

1,2,3のいずにも引っかかってこないような研究は,情報量の観点から,意味がないと判断されても仕方ないでしょう.

あるいは,utpatti, aapti, vik.rti, sa.msk.rtiという,sa.mskaaraの四分類ということで言えば,

1.ゼロから作り出す(新たな視点)
2.どこかにあるのを取ってくる(既にある問題の再説・検討)
3.加工して形を変える(新たな解釈の提示)
4.より洗練させる(読みやすく文章を整える等)

という作業分類も可能でしょう.

定期祭nitya, 願望祭kaamya, 臨時祭naimittikaという祭祀行為の三分類で言えば,

1.印仏研や紀要に毎年出す(義務行為)
2.いいのができたら国際学会やインド思想史学会で発表(名声を得るための願望祭)
3.以前の間違いの修正や記念論集(補修儀礼、臨時祭)

ということになるでしょうか.

  1. 2018/01/25(木) 07:31:44|
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A scholar's desk

偲ぶ会 034

2003年1月24日に逝去された上村(かみむら)先生の東文研のオフィス.

3月末までそのままにしてありました.

偲ぶ会が東文研で行われたのが3月13日.

最後の最後まで作業されていたことが伝わってきます.
  1. 2018/01/24(水) 07:13:04|
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sandeha



風呂屋か、カンボジア料理屋か?

男か女か。

  1. 2018/01/23(火) 23:48:16|
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読むとおかしい

アレックスからのメール.

どうも意味を為さない,と.

確かにその通りです.

真剣に読むと,全然意味が通じません.

こういう場合は,たいがい,テクストに問題があります.

アレックスは,慎重なので,彼が読んでおかしいと思うときは,テクストがおかしいことが大抵です.

こういうときは,基本に立ち返って写本チェック.

面倒ですが,仕方ありません.

まずは,該当箇所が写本のどこなのかを探さないといけません.

これが結構面倒.

ようやく見つけて,その次に,簡単に校訂開始.

すると,ぼろぼろ出てくるわ,異読,異読.

大漁です.

いままで意味を全く為さなかったテクストが,ちゃんと理解可能になりました.

やはり,おかしいと思ったら写本チェックです.
  1. 2018/01/21(日) 21:00:57|
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第29回 西日本インド学仏教学会(九大),2018年7月28日(土曜日)

前回は浜幸屋が既に押さえられていたので,泣く泣く近所の別の旅館にしましたが,今年は早めに始動.

無事に予約できました.

2018年7月28日(土曜日)の予定.

今年は夏に伊都への移転もあり,7月末ともなると,いろいろとありそうです.

Shikanoshima 066
Shikanoshima 067
Shikanoshima 068
Shikanoshima 047
Shikanoshima 057
  1. 2018/01/21(日) 18:55:12|
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常なる途中

「志半ばで」と言うのでしょうか,諸行無常が故に,平均寿命に比して比較的若くして亡くなる方も,インド学・インド哲学・仏教学には存在しますし,それは人間である以上,回避不可能な事柄です.

私自身の周囲で思い出しても,小倉先生(1959/9~1998/5/16),谷澤先生(1954~2007/2/20)がいらっしゃいます.

また,名古屋出身で金沢大学にいらした島先生(1950年2月12日 - 2007年5月12日).

いずれも,我々の印哲業界を超えて,これから,他分野にもアピールしていくような存在になるはずでした.

また,もう少し上になるとはいえ,江島先生(1939年8月28日~1999年5月22日)も上村先生(1944年3月~2003年1月24日)も亡くなられたのは在任中.

上村先生は,マハーバーラタ翻訳途中でした.

最近では,同世代の畝部さん(1968~2016/11/15),赤羽さん(1972~2016/9/17)が急逝.

いずれも,それぞれの分野を背負い,また,今後の若手を引っ張っていくはずの存在でした.

畝部さんは,今後の名古屋を任されていた人材.

九大と同じく,名古屋でも単数講座は2人で担いますから,世代交代も含め,一人が抜けてしまうと大変なことになります.

paramparaaの断絶という事態にもなってしまいます.(幸い,昨年,公募が出ていましたから,そのような事態は起きないでしょうが.)

畝部さん,文法学・バルトリハリのみならずパーリにも切り込みつつありました.(その意味では,Ole Pindの遍歴に似ています.)

教授の和田先生との役割分担もあったのでしょう,畝部さんは,インド哲学も仏教も,という守備範囲でした.

いっぽうの赤羽さんは中観一筋.

ジュニャーナガルバ研究で有名.(シリーズ大乗仏教にも分担執筆.)

ウィーンのプロジェクト研究員として彼の地に在住,その途中,病に倒れてしまいました.

日本の中観研究の層は,最近は,必ずしも厚くはありません.

若手・中堅の中観研究者の中心的存在でもあった赤羽さんの非存在は,今後の後退要因になります.

世界的に見ても,中観のサンスクリット文献研究というのは,本当にお寂しい限りです.

アンを始めとして,今後,少しずつ盛り返していく必要があるでしょう.(田村君,新作君に頑張って貰わないといけません.)




中堅に不幸が続くと,大先輩の金沢さんからは,「片岡君も気をつけてね」と言われます.

幸いにして,いまのところ平穏無事.つつがなし.(インドのバンガロールで昔,ひどい虫に顔全体を刺されたことがありますが.)

院生・PDにも恵まれ,現在,学振4人,ロバートホー奨学金1人と,充実しています.

ハルを見習って各人と週一で一緒に読むので,それなりに大変ですが,根本君のハードスケジュールに比べると,まだましという感じがします.

私が院生のころは,自分のテクストを先生と一緒に読むなどということは,してもらった覚えがありません.(先生自身が読みたいテクストを授業で読む,というスタイルでした.)

自分のテクストは自分で勝手にやるものだと思っていました.

というわけで,「人のテクストを一緒に読む」という習慣自体は,ハルナガアイザクソンに教わってからです.(そういえば,大地原先生は,年の最初に自分で勝手に時間割を決めて,誰がどれに出る,というのを決めていたという話を聞いたことがありますが,詳しいことは分かりません.自分の葬式まで,誰が何をするか,という役割分担まで決めていたといいますから,つくづく厳密です.いかにもの「一昔前の大先生」という感があります.)

ハルを評する形容詞でよく聞くものといえば,「寛容」generousということでしょうか.

たいがい忙しいのですが,研究に関してはジェネラスに時間を割いてくれました.

そして,その生徒数たるや膨大です.

みんながみんな,ハルを頼りにして,「読んでください」と来てましたから,四六時中,読書会でした.

私も,むかしは随分お世話になりました.

サンスクリット校訂しかり,英語しかり.

後々は,そうやって尋ねてくる人の読書会に勝手に参加することで,あれこれの分野を勉強させてもらいました.

一緒に読む利点は,学生Aが学ぶだけでなく,教えるBも学ぶことになりますし,さらに,自主参加するCやDも勉強になるという点にあります.

つまり,みんなの勉強になるということです.

そして,AやC,あるいは,CやDが,さらに集まって別の読書会グループを作るということにもつながります.

サンスクリット文献の世界は網目状にどこかで連関して繋がっていますから,できるだけ沢山の分野と文献を読む方が良いに決まっています.

古典研究というのは,昔からそういうものです.

やはり,読書量というのは重要です.(同分野の縦と,多分野の横.)

或る分野ではよく使われる単語も,他分野では全く使われないことがあります.

むかし,vikalpaを任意選択と訳すのは一般的ではないのだから脚注が必要ではないか,と言われたことがあり,面食らったことがあります.

vikalpaを分別と訳すことのほうが,実は,サンスクリット的には一般的ではないのですが.

caの意味がsamuccayaであり,vaaの意味がvikalpaであるのは,サンスクリットの基本の基本です.

「(AかつBを除く)AまたはB」と言う時の「または」の意味が任意選択ですから,サンスクリットをやる際の,基本の基本の基本の,ずっと基本です.(もっとオタク的には,anyatarasyaamとvibhaa.saaの区別ということになりますが,それは置いておきましょう.)

仏教の特殊な分別世界・言語世界だけに慣れきってしまうと,自然なサンスクリット感覚が微妙にずれてきてしまいます.

サンスクリットをやる以上は,カーヴィヤの註釈でも多少は読んで,少しくらいは文法学的な註釈方法に習熟したほうがいいと思います.

逆に,それぞれの分野でのジャルゴンも,少しくらいは知っておいた方が便利です.

「lakṣaṇa=定義的特質」とだけ思っていると大間違いです.(ミーマーンサーでは,プラマーナと同じ意味で用いられます.スートラ以来の用法.)

さらに,ややこしいのが,pratyayaです.

仏教ではhetupratyaya因縁というときの「縁」ですが,それ以外のインド哲学(ダルシャナ)文献では,ただの「認識」です.

しかし,仏教を議論したり,あるいは,そこから影響を受けているダルシャナ文献となると,その場でいずれなのか判断する必要にせまられます.ややこいプラティヤヤは嫌や!




完璧なものを少数だす,というやり方もあれば,できる範囲のものはどんどん出す,という行き方もあります.分類すると次の四つになるでしょうか.

1.良品多作
2.良品寡作
3.悪品多作(粗製濫造)
4.悪品寡作(無能)

(何が悪いか良いかは後代の人が決めることなのでさておき)その時点でのベストをどんどんと出していくほうが自分には性に合っています.

完璧を期す余り,出さずに終わってしまうと,結局,後の人が一からやることになるので,余計な手間がかかることになります.

一度出しても,あとから自分で改訂することもあるでしょう.

歳をとって進歩していたとすれば,それも当然ありうることです.

研究成果は突き詰めれば仮説なのですから,その時点でのベストが出せればそれで良しとするしかないでしょう.(特に我々の場合は,医学や工学と違って,間違ったからといって,事故が起こったりするわけではないので,後々の訂正をのんびりと俟っても社会的に重大な損失はありません.)

サンスクリットの文献量と深さに比べれば,一人の一生は短いので,過大な志を抱いて叫んでみても,端から見れば,犬の遠吠えにしかなりません.

やれる範囲で頑張るくらいしかできることはありません.いわゆる「一隅を照らす」です.

かといって,一年に書いたのは印仏研の短い一本だけでした,などというのは,(海外に出てて書く機会が無かったなどのaapatkaalaを除けば)我々の分野では「どうか」と訝しく思われても仕方ないでしょう.

志だけ高すぎて実力と成果が追いつかないのもどうかと思いますが,志が低すぎるのはもっと駄目でしょう.

いるだけ周囲の害毒です.

任を得ている人は,競合他者の機会を奪って任を託されたわけですから,さぼらずに任を全うする必要があります.

「しない場合には,失墜がある」(akaraṇe pratyavāyaḥ)というのは,義務的な定期祭の一つの解釈方法です.(マンダナの解釈は異なります.)

さらに,常住坐臥の曹洞宗流に言えば,後時の地獄行きを待つまでもなく,その場で既に失墜しているとも言えるでしょう.([お前は既に堕ちている!」とでも言えばいいでしょうか?)

澤木興道風にいえば,「その場で仏になる」の逆ということになりますから,その場で地獄の住人になっている,ということになります.

即身成仏があるならば,それの逆ヴァージョンがあってもいいはずです.

「即得地獄」とでも言えばいいでしょう.
  1. 2018/01/21(日) 12:13:18|
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MHK

MHKの困難は,まず,写本が一つであること.

そして,現在公開されている写本の写真が鮮明でないこと.

つまり,写本それ自体の読みが必ずしも確定しえないこと.(実際,写本の写真,ゴーカレーのノート,そして,出版されている先行研究のemendationという幾つかのソースを参照する必要があります.)

そして,それをさらに直す必要が出てくること.(ここでは,自然なサンスクリットを作ることのできるサンスクリット語作文能力も問われます.)

MHK本文チベット訳から,また,注釈TJのチベット訳から,さらに,文脈・内容・論理から,総合的に,本文の読みと解釈とを判断せねばならないこと云々の諸困難が待ち受けています.

先行研究もそれなりにあるのですが,全然,問題解決には至っていません.

研究者の実力が様々な側面において問われます.つまり,真剣勝負となります.

1.不鮮明な写真からの写本解読
2.写本の読みの訂正,写本の前提とするテクスト想定
3.チベットとのすりあわせ,チベット訳の想定するサンスクリット想定
4.注釈のチベット訳の解読
5.そこからの本文解釈への遡行,すりあわせ
6.提示される論証式の論理・議論についての再構成力,論理学的知識

詩節で書いてある場合,簡潔ですので,どうしても,文脈から議論を再構成する必要が出てきます.

つまり,文字面を超えて,向こうにある内容を推測する能力が問われます.

そこで最も重要なのは,議論を再構成する力,すなわち,その当時のインド論理学の知識や,それを用いた議論への習熟です.

pakṣa, hetu, dṛṣṭānta, upanaya, nigamanaや,asiddha, vyabhicāra, viruddhaやdṛṣṭāntahīnatāはもちろん,dharmisvarūpaviruddhaやdharmiviśeṣaviruddhaなど,テクニカルタームを容易にこなせるよう準備していないと読み手としては失格です.

また,註釈がいかなる意図をもって本文を解釈しているのか,註釈の意図の理解ということも,内容理解においては重要です.

これは通常のサンスクリット註釈を読みこなすことで鍛えられますが,MHKの場合は,その註釈がチベット語訳でしか残っていないという難点があります.

つまり,註釈に関して,サンスクリット本文をチベット訳から再構成する頭が別途必要となります.

M:むずかしい(簡潔な本文から読み取るのはかなり難しい)
H:ひどい(写本状況がひどい)
K:こんなん(様々な困難が待ち受けています)

1.MHK梵文(写真・ノート・先行研究),MHK本文チベット訳
2.TJ梵文,TJ蔵訳
3.諸先行研究

TJの梵文がもしあれば,サンスクリット本文の確定においても,かなりの役割を果たすはずですが,,,,,
TJ蔵訳だけでは,MHK本文を再構成するにあたっても,かなりの制約が課されることになり,高い確度をもってMHK本文を直すという訳にもいきません.

現状では,最終的な解決というよりは,ベストな解決法の提案,というところが関の山でしょう.

もちろん,研究成果というのは常に(いずれ反証されうる)仮説に過ぎませんから,その本質がMHK研究の場合は,より露わになっている,というにすぎませんが.

MHK研究の現場は,荒涼殺伐としています.実力勝負の戦国時代.

その中で生き抜くには,様々な能力を鍛える必要があります.

そういうのが好きな人には格好の舞台です.

しかし,自然なサンスクリット感覚が身につく以前に荒れたサンスクリットに慣れると悪い癖が身につくので,十分に綺麗な(テクストや註釈が良く整備された)サンスクリットに習熟した上で臨むべきテクストだと,教育上は,思います.
  1. 2018/01/19(金) 19:59:15|
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at G

  1. 2018/01/19(金) 00:30:50|
  2. 未分類

19 years in Fukuoka



An Indian restaurant next to Suikyo Tenmangu opened in 1999.
  1. 2018/01/17(水) 00:50:22|
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bajeko

  1. 2018/01/13(土) 23:32:21|
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Shree Ganesh2





美野島の路地裏。

かつて、担々麺が人気の「明日香」のあった場所。






パーティールームもついている二号店。

サスラリと中華の器が同じ。ホールにはラージさん。母語はネパール語。英語が流暢です。

そして、歌もいけます。

パーティーになると、よく歌わされるそうです。

二階のパーティールームには、音響施設、舞台、そして、ハルモニウムも完備。



バジェコセクワハウス、ナーンハウス、そして、ジュリーガネーシュ2。

いずれも大人数のパーティーが可能。

森林の遷移と同じように、ネパール人の料理屋も遷移している様が明らか。

1. ネパール人がやる、日本人相手のインド料理屋。(これ自体はさらに郊外型店へと発展)

2. 次に、1の要素を含みながらも、ネパール人を主な相手にしたネパール料理、居酒屋へと。(これも現在、周辺各地に展開中。筆頭のナングロガル吉塚店のオープンが2016.10.25。)

3. そして、1と2の要素を含みながら、ネパール人が踊って歌える舞台付きのドホリサージ風居酒屋へ。



ちなみに、福岡のディスコでは、C、I、Xが、ネパール人の若者がよく行く所とのこと。

送金屋city expressの場所がCの目の前なのも、説明が簡単だから。




この次には何が来るのか楽しみです。





ただし、向こうでの面接も導入され、ビザの取得も厳格化、さらに、こちらでの難民申請などについても制度が改められつつあり、また、その他の関連する制度も見直されつつありますから、人口増加のカーブは緩やかになると予想されます。

今後、就学を終えた多くのネパール人の就職先が問題になるのは明らかです。
  1. 2018/01/13(土) 10:06:07|
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印哲新年会

卒論提出日に合わせて。

今回は箱崎の居酒屋にて。

黒木さんも無事に卒論提出。

斉藤さんもPD最終年度。

15名参加。座敷を占領。

雪にもかかわらず居酒屋のカウンターは満員でした。
  1. 2018/01/13(土) 09:48:40|
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Sasurali in Wajiro, near Fukkoudaimae station

ダーラン出身,ライ族のロサン・ライさんのサスラリ.

2017年9月30日にオープン.

スープモモは特徴的.

お店は,ネパール人の間でも味が良いと評判のようです.

ライさんの丁寧な接客も好印象.

ラッシーもサービスしてもらいました.

新宮のさくら学院からの留学生がメインのお客.

八カ国は来るそうです.

すぐ近くに「ガウレ」があります.

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  1. 2018/01/08(月) 09:55:19|
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シティエクスプレス開設

CityExpressFukuoka.jpg

業界最大手のCity Expressが親不孝に事務所を開設.

彼らがスポンサーとなることで,ますます,各種催事も盛んとなるでしょう.

雨後の竹の子のように増えるネパール料理屋間の競争と同時に,送金屋間の競争も激しくなっているのでしょう.
  1. 2018/01/08(月) 09:42:27|
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Zaeka in Oyafuko, Fukuoka

zaeka 003
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半年ほどアリさんが離れ,どこにでもある感じの味になっていましたが,アリさん,無事に復帰.

奥さんと娘さんの姿も.

ちゃんとしたビリヤニとカレーが復活.

相変わらず意気軒昂.

隣のマレーシア人二人組もつかまって,最後には記念撮影までしていました.

福岡旅行の良い思い出になったことでしょう.

サルマンカーンに似ているということで,最近は,ジムにも通って鍛えているそうです.
  1. 2018/01/08(月) 09:38:49|
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おじゃり

箱崎にあったお好み焼き屋の「広島選抜」、2016年に閉店してどこに行ったのかと思いきや、西条の広大前でした。しかも、お好み焼きではなく、チキンソテー。OJARI。次の次の西日本印仏で行くときに行けるでしょうか。
  1. 2018/01/06(土) 14:55:57|
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shiftiness of 四依

瑜伽師地論 (No. 1579 彌勒説 玄奘譯 ) in Vol. 30
又有
T1579_.30.0346b14: 四依。一法是依。非補特伽羅。二義是依。非
T1579_.30.0346b15: 文。三了義經是依。非不了義。四智是依。非
T1579_.30.0346b16: 識。

顯揚聖教論 (No. 1602 無著造 玄奘譯 ) in Vol. 31
復有四
T1602_.31.0501a26: 依。一依法不依衆生。二依義不依文。三依了
T1602_.31.0501a27: 義經不依不了義經。四依智不依識。



解釈学というのは自分の意見を文章の上に押しつけるためのものですから,その解釈というのは,いずれにしてもかなり恣意的なものなのですが,ここまではっきりと解釈装置を明言してしまうと,その恣意性が明白となってしまいます.

1.何が説かれているかが大事なのであって誰が説いているかは大事ではない.(当然,帰結としては,殺人犯が説いていても,良い発言は良い発言である,ということになります.「お前が言うな」「どの口が」という反論は封じられます.有言実行の必要はありません.受け売りでも,孫引きでも,さらにいえば,剽窃でもコピペでも,あるいは,発言そのものを発言者が誤解して誤用していたとしても,その発言自体が良ければ良いわけです.例えば,憲法を誰が作ったかは大事ではなく,その憲法自体がよければそれでよいではないか,という立場にあたります.)

2.内容が重要なのであって言葉尻ではない.(だとすると,文面がどうあろうとも,どのような内容でも引き出せることになってしまいます.憲法から,文面を無視してでも,色々な意味が現に引き出されているように.「Aと書いてあるけど実はBの意味だよ」という「とても柔軟」な考え方です.これをやると,何でもありになってしまいます.恣意的な解釈というのは,まさに,このような姿勢のことを言います.文面軽視.しかし,新興勢力というのは,どうしても,これをやらざるを得ません.実際,インドにおける思想史の発展というのは,同じ文章を別様に解釈することで発展してきましたから,まさに,このような態度が背後に隠れているわけです.しかし,ここまではっきりと表明してしまうと,それはそれで,保守層としては眉をしかめたくなります.やはり,文面からなんとか「深い」意味を導く努力はせねばならない,というのが通常のヴェーダ学者的態度です.いっぽう,「言葉が違っても意味が合っていれば経と認めてよい」ということを言い出すと,何でもありのカオスとなってしまいます.実際,そうやって,大乗経典が出てきたわけですが.)

3.確定済みの意味を持つ文面に依るべきであって,解釈が必要となる未確定文に依るのではない.(だとすると,Aの意味は確定済み,Bの意味は未確定という判定は誰が為すのか,それは恣意的ではないのか,という反論が起こりえます.「法華経は未了義経であって,解深密経が了義経である」という唯識学派の判断を法華教徒が聞いたら,その恣意性に呆れるでしょう.条文Aが優先,条文Bは,Aに沿って解釈し直すべき,というような態度にあたります.取捨選択・教判の恣意性です.)

4.無分別の直観こそ大事,有分別のこざかしい知は信用できない.(言葉にできない直観知などを持ち出す時点で,信用なりません.反論不可能ですから.さすがに,裁判官が,「自分の直観が正しい」「こざかしい理屈はどうでもよい」などと言ったらびっくりです.しかし,大岡裁きの一部は,これにあたるものがあるかもしれません.しかし,無分別の直観が正しい,というような保証がどこにあるのでしょうか.案外,空気を読む忖度の結果かもしれませんし,自己利益への誘導かもしれません.クマーリラならそう批判するでしょう.直観など持ち出すのは,見た夢を語り出すのと同じです.錯覚との区別がつきません.「ピピピの直観に従いました」「その場の思いつきで」と言われているのと同じです.)

最後の智と識の対立は,これぞまさに宗祖を戴く宗教,という感じで,潔い気がします.しかし,「それを言っちゃあ,おしめーよ」と多くの人は思うでしょう.

「深い禅定で見られたもの」などという擁護論に,一種のうさんくささを感じるのは,クマーリラによる全知者批判を読みすぎたせいでしょうか.

仏教の場合,誰がプラマーナか,というところで,最終的には仏陀やその系譜に権威を帰属させますから仏教内に収まりますが,しかし,このような恣意的な態度をさらに推し進めれば,最後には,「自分が直観で見たものが正しいのだから,それで全てよし」ということになるので,仏教の枠内に収まる必要も本当はなくなってしまいます.「正しければ仏教である必要は全くない」という考え方です.「仏を殺す」という禅の一部の考え方などは,このような方向でしょう.

この順序に意味があるとすると,


 |
未了義了義
 |

 |


となります.

意味が通るように並べ替えるならば,

人→文→法・義→了義・分別知対象→無分別知対象

というような止揚を目指しているようにも見えます.
  1. 2018/01/04(木) 18:50:31|
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常無と無常

早島理 1997: 57:
「非存在」とは我・我所など,もともと非実在であるにもかかわらず,実在するかの如くに遍計し執されたものの非存在の意である。無常とは,文字どおり「常無きこと」,生滅・変化である。その無常がそのまま「非存在」であるとする定義は,三性説をまって初めて意味を有するのである。



少し分かりにくい説明です.

おそらくこの分かりにくさは「無常とは,文字どおり「常無きこと」,生滅・変化である」という部分にあります.

私なら,「無常なものanityaとは,通常の意味では,常住なものnityaではないもの,すなわち,生滅を特質とするもののことである」とでも表現するでしょうか.

まず,MSAなどは,anityaの語義解釈によって,三性それぞれにanityaを配当しようとしているので,anitya1とanitya2とanitya3として,区別する必要がでてきます.

語義解釈としては,後二者は(教義的には違いますが)文法的には同じでしょうが,最初のものは,文法的にも「常に無いもの」という特別な解釈です.

anitya1:常に無いものnityam asat=無asat
anitya2:常なるものではないもの=生滅を特質とするもの
anitya3:常なるものではないもの=客塵に汚されることもある無垢の常なる円成実

語義解釈を行っているので,いずれも「文字どおり」といえば文字どおりの意味なのですが(つまり語源的には正しいのですが),anitya1は,いわゆる我々が考える「無常」の通常の意味(つまりanitya2)ではありません.

むしろ,「常無」とでも訳して区別すべきものでしょう.

「そのまま」という箇所は,早島先生にとっては重要なポイントです.

論文冒頭には次のように強調(原文では上点)が付されていました.

早島理 1997: 53:
無常の二種類の意味を有為なるものが二重に有し得るのは,三性説に依拠してである。すなわち,有為なるものは依他起性からすれば「生滅・変化」であり,同時にそのまま遍計所執性からすれば「非存在」である。



分かりにくいですが,次の文章によって,その意図するところが明らかになります.

早島理 1997: 53:
我・我所など,もともと非実在であるにもかかわらず,非刹那滅的に実在するかの如くに遍計し執されたものの非存在の意である。



ようするに,有為=依他起=生滅するもの(=刹那滅のもの)が,非刹那滅のものとして執せられた場合に,それについては,無である,という意味となります.

結局の所,いつものように,

遍計所執(無)
  |
依他起(有)

という,おなじみの構造を指して説明しているわけです.

依他起を指してanitya2「常なるものではないもの」と言い,また,遍計所執を指してanitya1「常に無いもの」と言っているわけです.

早島先生が仰るように,「同学派は三性説を導入することにより,古来伝承されてきた無常の伝統的な教義に独自の哲学的解釈を付加・開陳」(p. 53)しているわけです.

彼らの場合,それは,anityaという語の語源解釈・語義解釈という仕方で行われます.

Rospatt 1995への熱い反論となっている早島 1997ですが,核となる主張(「アビダルマからの延長か三性説からの再構築か」)に関しては,どう見ても,早島先生に分がありそうです.

それはさておき,Rospatt 1995: 234の

The imagined [characteristic] (parikalpitalakṣaṇa) is impermanent (anitya) in the sense of the non-existence of an own-being.



は,さすがに許容できないと思います.

impermanentではなく,permanently non-existentとでも訳すべきでしょう.

impermanentと訳してしまっては,語源解釈をした意味がなくなってしまいます.

無を意味するanitya1については,ややこしいので,「常無」とでも訳すほうが誤解を招かないでしょう.

ともあれ,漢訳を挟むと,「無常」とだけあって,それが「無常なもの」なのか,「無常性」なのか,いまひとつ曖昧となってしまいますから,サンスクリットに慣れた目からすると戸惑います.

「こと」(性)と「もの」のレベルの違いには注意してほしいものです.
  1. 2018/01/04(木) 09:56:15|
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別時意趣

攝大乘論本 (No. 1594 無著造 玄奘譯 ) in Vol. 31
二別時意
T1594_.31.0141a20: 趣。謂如説言。若誦多寶如來名者。便於無上
T1594_.31.0141a21: 正等菩提已得決定。又如説言。由唯發願便
T1594_.31.0141a22: 得往生極樂世界。



海野孝憲 2002: 208-209:
「別時意趣」とは,譬えば「極楽園へ(生まれたい)という願望をおこせば,そこに往生するであろう.」と, 「無垢月光(vimalacandraprabha) の名号を念ずるその者は無上菩提を得るであろう.」(38)と説くようなものである. 「別の時に」ということを意趣することである.

海野孝憲 2002: 322, n. (38):『摂大乗論』では,「多宝如来」Bahuratnaとなっている. ラトナーカラはMSA XII-19のヴァスパンドゥ釈に従って. Vimalacandraprabha 「無垢月光如来」したものである.



ad MSA XII-18, Levi ed., 83,4-5:
kālāntarābhiprāyo yad āha---ye sukhāvatyāṁ praṇidhānaṁ kariṣyanti te tatropapatsyanta iti kālāntareṇety abhiprāyaḥ.

ad MSA XII-19, Levi ed., 83,23-25:
ye sukhāvatyāṁ praṇidhānaṁ kariṣyanti te tatropapatsyanta iti. vimalacandraprabhasya ca tathāgatasya nāmadheyagrahaṇamātreṇa niyato bhavaty anuttarāyāṁ samyaksaṁbodhāv iti.



大乘阿毘達磨雜集論 (No. 1606 安慧糅 玄奘譯 ) in Vol. 31
別時意
T1606_.31.0752a28: 趣者。如説若有願生極樂世界皆得往生。若
T1606_.31.0752a29: 暫得聞無垢月光如來名者。即於阿耨多羅
T1606_.31.0752b01: 三藐三菩提決不退轉。如是等言意在別時
T1606_.31.0752b02: 故。



ちなみに,「於無上正等菩提已得決定」の「得」は「得る」ではなくして,niyato bhavatiの訳語としての「已得決定」なので,「無上の正等覚に定まった者(=不退転の者)となる(であろう)」という感じでしょう.プラバーミトラの訳は微妙な感じですが...

大乘莊嚴經論 (No. 1604 無著造 波羅頗蜜多羅譯 ) in Vol. 31
大乘經説若有
T1604_.31.0621a11: 衆生願生安樂國土。一切當得往生。稱念
T1604_.31.0621a12: 無垢月光佛名。決定當得作佛。



インド人が「エーク・ミニッツ」と言う時は大概待たされますが,それも,意趣としては「かなり後で」ということなので,正直に受け取る方が馬鹿というものです.「今じゃなくて後で」の意.

電気屋が「一時間後」といって,ついに来ることがなかったのも,似たようなものです.

つまり,来世ぐらいに来るつもりなのでしょう.

気長に待て,ということです.

せっかちな人は待てないかもしれません.

了義・未了義を可能にする装置としての別時意趣,apologeticsには,便利なツールです.

にしても「多寶如來」でないのは,一乗の法華経が好きではなかったからでしょうか.

そちらの意趣のほうが気になります.

また,「多くの宝石を持つ者」と「汚れなき月のように輝く者」では,えらくイメージが違います.

前者は派手にじゃらじゃらと宝石を沢山つけた桃山文化のような成金趣味なのに対して,後者はさやけき静かな夜の涼しげな満月.

対照的です.
  1. 2018/01/03(水) 09:28:15|
  2. 未分類

BJKSKWHS



新年2日から大忙しのバジェコ。

ムラコアチャールも切れ、モモも切れ、ハリさんも「すいませんねー」の連続。

ついでにビルの電気も切れました。すぐ復旧。

博多にいながらにして、ネパールのパワーカット気分も味わえました。

みなさん慣れているので、携帯のライトをすぐ利用。



  1. 2018/01/03(水) 00:12:01|
  2. 未分類

the last night in 2017 with M

大晦日、研究室にこもっていたS藤博士も誘い出し、M山氏と博多駅側ビル下の何ということのない和食居酒屋にて3時間ほど談笑。

串カツの魚といい肉といい、どことなくgandhavatなのはご愛嬌。地元素の存在が推理されます。

締めはN亭のśūkarasūpa麺。

同ビルで全部用事がすみ、即駅に行けるので、便利です。

  1. 2018/01/02(火) 19:10:07|
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Gurung Losar at Naan House

グルン族のロサル.

といっても,踊りの上手いバドリーナートさんもいましたし,シルクジャパンのお姉さんもいましたし,昔ソルマリにいたタパさんも関東からわざわざ姿を見せていました.

全然グルンではありません.

要するに,グルンを中心とする在福ネパール人のお祭りとなっていました.

抽選会ではブッダのラクシュマンさんが壇上に.

スポンサーなのでしょう.

息子さんの姿も.

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マンションの2階に位置する店舗なので,「外で喋るのは禁止」.

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Buffetの列も秩序有り.

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抽選会,眞鍋君当選.

女物の服なので「要らないから辞退する」と言ったところ,代替品として,ネパール帽(トピ)をくれました.

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九州タム協会の主要メンバーが壇上へ.後に記念撮影.

ナングロのホールのイケメンお兄さんの姿も.

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すごい踊りの上手いお姉さん.

会場からおひねりも出ていました.

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まずセルローティーとチャイ.

その後,アチャールと芋.

その後,チキンカレー.

その後,Buffet.

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20代ばかりなので,とにかく元気な会場でした.

うちのテーブルのお兄さん達のビール消費の早いこと.

一瞬でした.

隣に座った二人はいずれも日本に来て4年目.

地元ポカラのきれいな写真を見せて貰いました.

共通に抱える問題は,今後の進路.

語学学校を終えて,専門学校を出た後,どうするか,ということです.

うまく就職できればいいですが,なかなか難しいようです.
  1. 2017/12/31(日) 12:13:08|
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写本とデジカメ

昔はというと,写本は,白黒マイクロフィルムで見るのがほとんどでした.

イギリスのボードレイアンしかり,ブリティッシュライブラリーしかり.

インドでも,カルカッタのAsiatic Societyなど,ちゃんと設備があるところはマイクロ.

複製してもらってから,日本に帰ってきて,図書館で自分で見ながら紙で打ち出して,それを製本して使っていました.

しかし,昨今は,デジカメで撮らしてくれるところは,それで作業完了.

そのまま,パソコン上で作業できるようになりました.

しかも,見やすい.

白黒のマイクロだと,黄色だろうが赤色だろうが,全て黒くなるので,赤線引いた最も大事な箇所が見えなかったりしますが,カラーだと,そのような心配がありません.

しかも,解像度のよい写真なら,拡大してもよく見えます.

マイクロの場合,写本が本形式で閉じてあったりすると,真ん中が真っ黒になってしまっていることが多いのですが,その心配も,カラー写真だとありません.

字の小さい貝葉写本の場合,コントラストも問題.

イギリスからマイクロで貰ったものがいくつかありますが,とても読めたものではありません.

線がうっすらと見えるかどうか,という感じです.

ただでさえストレスの溜まる南インド写本,やはり,読むならデジタルのカラー写真です.

楽になったものです.

日本にいると,イギリス在住に比べ,写本のハードルが高かったのですが,いまは,かなりそのハードルも下がってきました.

写本カタログも,結構ネットに落ちていますので,いまや,図書館貧富の差も,かなり解消されてきました.

キャリアの最初から,気軽に写本を参照する,ということが可能になってきました.

文字というのは,やってるうちに何となく覚えるようなもので,別段習うようなものでもないので,使う必要があるときに写本を使う,という姿勢が一番です.

つまり,別段構える必要はない,ということです.

年取ってしまうと新たなことに挑戦しづらくなってしまいますので,やはり,キャリアの最初から写本に親しんでおくのがいいでしょう.

ただし,インドから写本を取ってこい,といっても,初心者には結構ハードルが高いので,最初は周囲に助けられながら,というのが理想です.

タクシャカの首の宝石のようなもので,非常に取得困難な図書館も中にはあります.最初からそんなところに挑戦しようとしても無理ですので,まずは,楽勝なところからいく,というのが基本です.しかし,そのような情報も,上の人に聞かないと分かりませんから,やはり,あらまほしきは先達です.
  1. 2017/12/30(土) 12:13:50|
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bahubali

upavishaは単に「座れ」でしょう。
  1. 2017/12/29(金) 15:06:47|
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WSC

夏のWSCのヴァンクーヴァー.

早めに飛行機と宿を予約.

IABSのトロントは,エアカナダ一択だったので,成田から全員同じ飛行機,という感じでした.

あぶれた人は,翌日の当日朝に到着.便が遅れたそうで,みなさん,かなりしんどそうでした.

いずれにせよ,同じ便に集中せざるを得ませんでした.

ヴァンクーヴァーは,色々な便の可能性があるので,ばらけそうです.

福岡だと仁川経由の大韓航空が便利なのですが,接続1時間の場合,福岡空港を離陸するのが30分遅れることが結構あるので怖いです.福岡空港,混雑しすぎ.

接続便に間に合わず,経由地で次の便が急に変更になった場合,ロストラゲッジの可能性も増えてしまうようです.(最近,私の周囲では,別会社で二人経験済み.)

日本からの着の身着のままで学会に臨む,というのは,やはり困ります.

WSCでは,ラリーが自分の周辺の人と一緒にミーマーンサーパネルを立てています.

まさか,ミーマーンサーでパネルが立つような日が来るとは思いませんでした.

たぶん,認識論などではなく,ディープ系ミーマーンサーのほうでしょう.

いまや,アメリカ最強のサンスクリティストと評判で,影響力も強いようですから,北米にミーマーンサ家がじわじわと増えることでしょう.

彼の英語は早口で巻き舌なので,初心者にはかなり辛いものがあります.

わたしも,ここ最近にして,ようやく慣れてきました.
  1. 2017/12/29(金) 07:25:36|
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