Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ミーマーンサー研究の難しさ

既存のサンスクリットテキストを正しく解釈するだけでも、かなりの修行年数がかかりますが、さらにその上に、既存のテキストを疑ってかからないといけないというのがインド哲学文献の難しいところ。

そして、その疑いを確証、論証に変えるためには、何年もかかって写本も集めないというのがさらなる困難。

何年あっても足りません。

クマーリラのシュローカヴァールティカ、ドワーリカダーサの便利な普及版を信用すると痛い目に会います。

あちらこちらに落とし穴があるので、どこを読む時も、マドラス版との校合は欠かせませんし、さらに、理想的には、写本と合わせないと正解を導くのはむずかしいでしょう。

最も有名なテキストすらこの状況です。

他については言わずもがな。

博士レベルでデビューしたてだと、まだ、写本経験も校訂経験も浅いでしょうから、ミーマーンサーで論文を書くのはたいへんです。

また、往々にして、認識論の議論の背景になる知識が、タルカパーダ以外の祭事哲学部分にあったりします。

認識論だけで済まなくなるのが聖典解釈学ミーマーンサーの奥深さ、泥沼の怖さであり、面白さです。

ミーマーンサーの言語哲学議論は、認識論に留まらず、背景となる解釈学の議論もカヴァーしないと足元を掬われます。

バルトリハリの哲学を理解するのに文法学の知識が前提となるように、クマーリラの哲学を理解するには聖典解釈学の知識が欠かせません。

つまるところ、クマーリラをやろうとすると、写本から祭事哲学まで、幅広く押さえないと、論が浅くなるということです。単なるプラマーナ論だけでは済まないのです。

文法学の場合,インドでの伝統も分厚く残り,欧米諸語での研究もあるので信頼できる二次文献も多くありますが,ミーマーンサーの場合はインドでの伝統は僅か,欧米諸語での研究も本当に数えるほどしかありません。

したがって,いきなり素手で断崖を登れというような無茶をさせられることになるわけです。
  1. 2017/05/24(水) 18:51:05|
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ラグヴァンシャ 9.11-15

9.11
帯は腰から外れ,化粧は時ならぬ涙で落ち,髪はほどけおちた(analakān)――敵の妻達を,彼(ダシャラタ)は,武力により,[そのようなものと]した,アラカーの主(alakādhipaクベーラ)に等しい勇武を持つ彼は.

9.12
防御した一台の戦車で大地を勝ち取った弓取りの彼――人を乗り物とする者(naravāhana, クベーラ)に等しい成功を有する――により,轟音の(ghanaravā)大海は,勝利の太鼓となったそうだ.

9.13
輝いた幾千の端の光を有す雷により帝釈天は栄誉を積んだ.
新しい蓮(navatāmarasa)の顔を有する彼は戦いにおいて,矢を雨降らし音を発する(svanavatā)弓により[栄誉を積んだ].

9.14
爪の赤色にも等しい輝きを有する,王冠の宝石の光により,全き男らしさを有する彼の(tam akhaṇḍitapauruṣam)両足に触れた,何百といる王達は.ちょうど神々が,百の祭祀を為した[帝釈天](śatamakham)の[両足に触れた]ように.

9.15
大海の岸から彼は,アラカーにも劣らぬ(alakānavamām)都城に戻った.お伴に幼い子供が合掌させられている敵の妻達――髪がほどけた(analakān)――を哀れんで.
  1. 2017/05/22(月) 19:05:48|
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Flea Market at Gokoku Jinja, etc.








蚤の市,春好夜市にて.

カレチネ,養生カレー,スパイスロード,マルハバ.

インド映画(Hal Girlfriend)鑑賞の後,

山口夫妻とKashiiのスリランカ料理Osuasiri.

アーユルヴェーダの癒やしを謳う店ですが,どう見ても,店のスリランカ人スタッフが一番疲れ切っていました.

Half Girlfriendは,Five Point Someoneで有名なチェータン・バガットの同名小説の映画化.

都会の大学生恋愛物,そして,金持ちお嬢様登場というのは,インド映画における定番中の定番です.

Śraddhā Kapūr演じるヒロイン登場から時ならぬ雨に濡れてくれて,感謝です.

一つ違うのが,ビハール出身の英語下手なヒーローという点.

英語とヒンディー語の間を行き来するベストセラー英語作家の原作者(Chetan Bhagat)自身が関心あるテーマでもあるのでしょう.

日本語字幕も親切についていましたが,最後のほうは,かなり雑になっていて,男女言葉(俺→わたし)は入れ替わるわ,変換ミス(昨日→機能)は多発するわ,そっちのほうが気になってしまいました.きっと締め切りに追われていたのでしょう.

映画を見る暇なく,英語スクリプトから直接日本語に訳したのでしょう,ヒンディー語のカタカナ化は,結構適当でした.

マーダヴ(Mādhav)がマドー,パトナ(Patna)がパタンなど.

マーダヴ・ジャー(Mādhav Jhā)が主人公の名前です.

ジャーと聞けば,ガンガーナート・ジャーよろしく,一発でビハールあたりの出身と分かりますが,そこも英語のJhaを見たのでしょうか,ジャハと翻字されていました.

字幕作成は,やはり,英語世界中心に回っているということなのでしょう.

主役のArjun Kapūrは,もっさりして熊みたいです.
  1. 2017/05/20(土) 22:25:18|
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シヴァ教再認識における時間

PVも注釈関係が大概ややこしいので閉口しますが,またまたややこしいのがシャイヴァ一元論の再認識派の文献です.

ウトパラデーヴァは,まず,主宰神再認識詩節を著わします.

そして,その上に,ヴリッティとヴィヴリティとを著わします.

ややこしいので,川尻さんに沿って,註と詳注としておきましょう.

詩節と詳註のそれぞれに,アビナヴァグプタの注釈があります.

IPK   IPV
Vrtti
Vivrti  IPVV

今回の読書会では,イザベルが回収したヴィヴリティを読み合わせしました.

ヴィヴリティは原典が失われていますが,写本や欄外註からの一部回収が可能です.

本当に一部ですが.

そして,トレッラ教授の画期的な研究に続いて,欄外註を駆使した川尻,そして,イザベルの研究が続いています.

また,再構成にあたっては,当然,アビナヴァのプラティーカがヒントになりますので,そちらも根拠資料となります.

後代の文献よろしく,コンパウンドが長かったりしますが,神学文献ですから,意外にすんなり読めます.

最終的にはシヴァ一元なので,大筋を間違うことはありません.

今回は,時間について.

時間というのは,つまり,順序ということで,区別を前提としたものですが,それも,シヴァが現わし出したものに他なりません.

つまり,一者でありながらかつ多様であるというのは,シヴァという認識においてのみ可能なのです.

通常,一と他とは矛盾します.

つまり,別であれば一でありえません.

しかし,認識上においては,ダルマキールティの多様不二一元のプラカーシャ論と同様に,多様でありかつ不二であるということが同居可能です.

この唯識理論を援用しながら,ウトパラとアビナヴァは,シヴァ一元論を時間についても主張します.

ここで重要なのは,別(bheda)といっても,ここでは,あくまでも,現れ(avabhāsa)の別なのであって,オントロジカルに別なわけではないということです.

現象的多様性という区別は一元論と矛盾しないのです.

アビナヴァが,援用資料としてダルマキールティを引いてくるのは面白いところです.

唯識が再認識派のベースになっていることが分かります.
  1. 2017/05/20(土) 12:32:09|
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PVの章の順序

イェールの読書会では,フランコ教授持参のヤマーリ註原典を皆で読みました.

取り上げたのはPVの章の順序に関わる記述.

PVの章の順序については,まず,フラウワルナーの研究があります.

また,チベット資料に基づく木村誠司,最近では,ヤマーリのチベット訳を用いた小野基,ケルナーによる論文があります.

そのヤマーリのサンスクリット原典を校訂しつつあるのがライプチッヒのグループ.

フランコ教授の指導下,二人が校訂されているところです.

日本からは松岡さんが同時平行で翻訳作業に取り組まれています.

さて,問題となるのは二つ.

1.PVはPSの注釈かどうか.
2.PVの章の順序はいずれが正しいのか.

ということです.

周知のように,それぞれについて,二つの立場が可能です.(自己のための推論,プラマーナシッディ,知覚,他者のための推論)

1-1.PVはPSの注釈である
1-2.PVはPSの注釈ではない
2-1.自推→プラ→知覚→他推
2-2.プラ→知覚→自推→他推

問題の発端は,ダルマキールティです.

PVには,自己のための推論だけに自注があります.

自推→プラ→知覚→他推
自注

他の章には書かれていません.

そして,フラウワルナーが推測したように,この順序でダルマキールティは著わしたのでしょう.

しかし,問題は,この順序が注釈作のPSとずれる,ということです.

PSに従うなら,

プラ→知覚→自推→他推

とならなければなりません.

ダルマキールティに近い注釈家であるデーヴェーンドラブッディやシャーキャブッディは,PVオリジナルと思われる順序に当然したがっています.

そして,ダルマキールティの欠を埋めるように注釈を残しています.

自推→プラ→知覚→他推
自注  デー デー  デー
シャー シャー シャー シャー

デーヴェーンドラブッディは,残り三つの章に.

そして,シャーキャブッディは,全体に更に注釈を書いています.

順序がずれるにもかかわらず,デーヴェーンドラブッディは,PVをPSの注釈だと考えています.

これにたいしてプラジュニャーカラグプタは,章の順序をPSに沿って変えます.

そして,自注以外の残り三つにバーシャを著わします.

プラ→知覚→自推→他推
Bh   Bh   自注  Bh

そのバーシャの上に注釈を著わしたのがジャヤンタであり,また,ジャヤンタを批判しながら別の注釈を著わしたのがヤマーリです.

ジャヤンタは,プラジュニャーカラが意図したであろうこの順序を堅持します.

そして,「デーヴェーンドラは,この順序について間違った」と明言します.

このジャヤンタの見方を批判するのがヤマーリです.

ヤマーリの見解は驚くべきものです.

まず,そもそもPVはPSの注釈ではない,と言い切ります.(仏説への注釈だと言います.)

これにより,PSの章順とPVの章順との食い違いが一気に解消されます.

つまり,PV章の並び順が変なのが問題なしとなるわけです.

そして,その上で,デーヴェーンドラが堅持した順序が本来のものであると主張します.

つまり,

自推→プラ→知覚→他推
自注  Bh  Bh  Bh
    ヤマ ヤマ  ヤマ

となります.

しかし,ヤマーリの問題は,Bhに注釈していることです.

したがって,Bhの注釈先であるプラマーナシッディ冒頭が実際にはPVの冒頭でないことを言い訳しなければならなくなります.

いやはや,ややこしい.

ともあれ,以上のややこしい経緯を頭に入れた上でないと,ヤマーリの言っていることはちんぷんかんぷんとなります.

以上を踏まえた上で,ああでもないこうでもない,デーヴェーンドラブッディはそこまで阿呆ではない,ジャヤンタの言っていることはナンセンスだ,というような議論を展開する箇所が,読書会で取り上げた箇所です.

写本一本,そして,また校訂作業の途上ということもあり,色々な問題が残されているのは明らかでした.

そのままでは素直に読めない箇所も残っています.

いずれにしても,チベット語と引き合わせながら,進めていくのは大変な作業であることは容易に想像がつきます.

ヤマーリの文体は,それほど簡単なものではありません.(例えば,ミーマーンサーの注釈家である読みやすいスチャリタと比べると難渋だと評価できるでしょう.)

いずれにせよ,校訂本が出るのが待たれます.

ディプロマティック・エディションは,既に,2016年に出版されているので,ヤマーリ原典の匂いをかぐことは既に可能です.

PS
PV
Bh
ジャヤンタ註・ヤマーリ註

ジャヤンタ註・ヤマーリ註は,PSから数えれば復復注,ヤマーリの主張にしたがってPVをPS註ではないと見なせば,復註です.

注釈の注釈(あるいは更にその注釈)に心血を注ぐのは,まさに,知的好奇心の賜物でしょう.

同じ構造で言えば,ミーマーンサーでは

JS
SBh
TV
NSudha/Ajita

があります.ニヤーヤスダーや,針貝先生の校訂でも知られるアジターです.

文献(学)の樹海にようこそ,といった感があります.
  1. 2017/05/20(土) 11:57:46|
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kutūhalanivṛtter apy arthatvāt

プラバーカラ派は全ての文章を実践につながる命令と解釈します.

実際の行為に役立たないような文章は無意味になってしまうから,文章を有意味だと考える必要上,全ての文章は命令文を本質とすると考えるわけです.

「ここに宝物がある」

という平叙文も,「ここに宝物があると理解すべし」と,理解するように命令する文だと解釈します.

同様に「アートマンがある」というのも「アートマンがあると理解すべし」という命令文だと解釈します.

このように,全ての文章は,何らかの行為への発動,あるいは,それからの回避を命令するものだ,とするのがプラバーカラ派の文章解釈理論です.

これにたいしてマンダナのきつい一言.

「好奇心の解消もまた目的となるので」

実践である発動・退行へと導かないようなもの,すなわち,好奇心の解消というような消極的理由もまた言明の目的となりえます.

1.言明⇒発動・退行
2.言明⇒好奇心の解消

つまり,行為へと導かないような言明もあるわけです.

「捨てようとされもしておらず,また,受け取ろうともされていないような,(つまり発動・退行には関わらないような)遠くの国の王様の名前や事跡などを扱う疑問が,関心者達にあるのが現に見られる」

とマンダナは述べています.

実践的には役立たないものであっても,知りたいという関心があれば,その関心を満たすだけで十分に目的となりうるのです.

知的好奇心を満たすこと,これだけで既に人間の目的として十分に役を果たすわけです.

それ以上何か実践的な目標を求めるのはお門違い,あるいは,現実を無視した見方だ,ということです.

「そして,それらに通じる者たちの,好奇心解消を主眼とする言明が[現に見られる]」と.

過去にあった出来事を淡々と語るようなもの,そのようなものは,聞き手の発動・退行といった実践活動を促すものではありません.

そうではなく,単に,楽しみのためです.

聞き手の悦びのために,既見事実をなぞって説く物語があるわけです.

聞き手の発動・退行のためではありません.

「また,悦びのために既見事実をなぞる物語があるが,それは,聞き手の発動のためでも,退行のためでもない」と.

知的好奇心を満たすことは,それだけで十分に目的となりうる,ということです.

そしてそれは現実にそうだ,というのです.

今現在の自分の実践には関わりのないような遠い昔のお話も,悦びのために人間は聞いたりします.

遊び心を忘れるとき,知的前線開拓は止むでしょう.
  1. 2017/05/20(土) 11:22:21|
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Chance and Contingency, a workshop at Yale Uni. organized by Prof. Phyllis Granoff



Date: 2017/5/13
Place: Yale University

Program

9:00-9:30
Phyllis Granoff
Chanceand Causality: Of Crows, Palm Tres, God and Salvation

9:30-10:00
Shinya Moriyama
Causation and Contingency: A Study on the Svabhavikavadapariksa of the Tattvasamgraha and the Tattvasamgrahapanjika.

10:00-10:30 Discussion
10:30-10:45 Coffee

10:45-11:15
Masamichi Sakai
Dharmakirti's Concept of Contingency/Dependence: With Special Focus on vinasa.

11:15-12:15
Hiroko Matsuoka
Kamalasila on Doubt as a Cause of Action

11:45-12:15 Discussion
12:15-13:30 Lunch

13:30-14:00
Eli Franco
Jayarasi on the impossibility of reasoning

14:00-14:30
Kiyokuni Shiga
How to deal with future existence: sarvastivada, yogic cognition, and causality

14:30-15:00 Discussion
15:00-15:15 Coffee

15:15-15:45
Kei Kataoka
Exceptional Absence of Regularity: A Study of Invalidity and Error

15:45-16:15
Isabelle Ratie
Utpaladeva's Vivrti on the Pratyabhijna Treatise: the Chapter on the Power of Action

16:15-16:45 Discussion




5/14

9:00-10:30
Reading Yamari on the order of the chapters of the Pramanavarttika. (Eli Franco)

10:30-11:00 Coffee

11:00-12:00
Nyayamanjari (Kataoka Kei)

12:00-12:30
Karnakagomin's commentary on a passage from Dharmakirti's Pramanaviniscaya (Sakai Masamichi)

12:30 Lunch

13:30-15:00
Reading Utpaladeva's Vivrti on Isvarapratyabhijnakarika 2.1.4 (Isabelle Ratie)

15:00-15:30 Coffee and Discussion

  1. 2017/05/13(土) 10:35:06|
  2. 未分類

イェール

  1. 2017/05/12(金) 10:31:10|
  2. 未分類

Aluth Avurudda

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  1. 2017/05/07(日) 23:57:11|
  2. 未分類

අලුත් අවුරුද්ද

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  1. 2017/05/07(日) 23:54:58|
  2. 未分類

Chance and Contingency, a workshop at Yale University organized by Prof. Phyllis Granoff

Date: 2017/5/13-14
Place: Yale University
Participants:

Phyllis Granoff
Isabelle Ratie
Eli Franco
Shinya Moriyama
Masamichi Sakai
Kiyokuni Shiga
Hiroko Matsuoka
Kei Kataoka

一日目が各人の発表,二日目が3人(Franco, Ratie, Kataoka)が持ち寄った資料のリーディングの予定.
  1. 2017/05/06(土) 12:00:35|
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IABS Toronto

IABSのプログラム,よくよく見ると,桂研発表は最終日です.

XVIIIth Congress of the International Association of Buddhist Studies
August 20th to the 25th, 2017
University of Toronto, Toronto, Canada

Panel 01:
A New Study of Ratnākaraśānti’s Prajñāpāramitopadeśa
(Fri., Aug. 25th, 9:00-12:30)

Katsura, Shoryu (Hiroshima University): The Four Yoga Stages of the Prajñāpāramitopadeśa

Shiga, Kiyokuni (Kyoto Sangyo University): On some common scriptural sources cited by Ratnākaraśānti and Kamalaśīla

Nishiyama, Ryo (Ryukoku University): Mādhyamikas in the Prajñāpāramitopadeśa

Hayashima, Satoshi (Ryukoku University): The Theory of Three Natures in the Prajñāpāramitopadeśa

Kataoka, Kei (Kyushu University): Ratnākaraśānti on Prakāśa

Luo, Hong (China Tibetology Research Center): Ratnākaraśānti’s sketch of self-awareness in the Prajñāpāramitopadeśa
  1. 2017/05/06(土) 11:41:07|
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मियजिसमुद्रतीरे

Miyajidake 116
  1. 2017/04/30(日) 07:34:05|
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मियजिदकेदेवालयः

Miyajidake 119
Miyajidake 120

रतिकामो यजेत |

Miyajidake 161
Miyajidake 176
Miyajidake 127

神域にアジャ(aja).पशुबन्ध用ではないようです.

Miyajidake 146


Miyajidake 178

25もあると,何が何だか分からなくなりそうですが.....

そして,25というと,Vetālapañcaviṃśatiを想い出します.
  1. 2017/04/30(日) 07:18:54|
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बीभत्सः रसः

Miyajidake 088
  1. 2017/04/30(日) 06:55:46|
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विनष्टम्, विनश्यत्, विनङ्क्ष्यति

Miyajidake 019

Miyajidake 023
Miyajidake 026
Miyajidake 032
Miyajidake 031
Miyajidake 030

sabbam aniccamをanicchanしつつも,非情にも全てはvinaśyaty evaです.

naśyadavasthāのあれやこれ.箱崎キャンパス理系地区,

記憶の中のあの建物も,視界に入るは廃墟ばかり.

Miyajidake 029

噴水も,作る時に少しは考えなかったのでしょうか.

いずれ使えなくなると.

千代体育館前にもありますが,きっと随分前から,止まっているのでしょう.

作る時は気分が高揚して噴水とか作りたくなるのでしょうか.

或る時期の流行だったのかも知れません.

いずれ使えなくなるとか考えなかったのでしょう.

後の人のメンテのことまで考えないのは作り手の無知でしょう.

kāraṇadoṣajñānaとbādhakaだと,ミーマーンサーのクマーリラも申しております.

全てを最初から計算し尽くすのは困難でも,後から間違いを発見するのは簡単です.

つまり,全国の諸例を見ればすぐに分かることです.

そのころはまだ失敗事例が顕著でなかったということでしょうか.

人間というものは,同じ間違いを繰り返すものですから,同じような失敗が,これからも,大なり小なり,あることでしょう.

作ったり壊したり,創造・存続・帰滅のスリシュティスティティサンハーラ.

にしても,サイクル短すぎでしょう.

法隆寺あたりを見習って欲しいものです.

手にしてないものを得よう,目新しいことをやろう,

とする前に,

既にあるものを大事にする,伸ばす,改善する

ことを考えた方が長い目では有益です.
  1. 2017/04/30(日) 06:49:08|
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Raghuvaṃśa 9.6-10

Raghuvaṃśa 9.6-10:

9.6. 公平さにより,財の雨を放つことにより,
また,悪人達を制することにより,人民の主(王)は,真似た.
閻魔を,福徳ある者達(夜叉・羅刹)の主宰神(財宝神クベーラ)を,
水天ヴァルナを.曙アルナー(savarṇāv aruṇā-)を先頭とする者(太陽)を,光輝により.

9.7. 鹿森の楽しみ(狩猟)も,賭博も,
また,月の影を宿す酒も,
また,うら若き(na vā nava-)乙女のとても愛らしい者も(priyatamā),
繁栄のために努める(yatamānam)彼を奪わなかった.

9.8. 圧倒する帝釈天に対しても弱々しい言葉を,
冗談においても嘘の言葉を,
敵共に対しても,荒々しい物言いで(paruṣākṣaram),言葉を,
怒りを離れた(aparuṣā)彼が発することはなかった.

9.9. 上昇(繁栄)と下降(破滅),ラグ族を率いる者(ダシャラタ王)から,
二つを,大地を守護する諸王は得た.
というのも,彼は,命令を踏み越えない(守る)者達にとっては
親友であったから.鉄の心を持つ者であったから(suhṛd ayohṛdayaḥ),反抗する者達にとっては.

9.10. 弓に弦を張った彼は海を縁とする大地を
一台の戦車で勝ち取った.
というのも,象を有し(gajavatī),速さ鋭き(javatīvra-)馬を有する彼の軍は,
勝ちどきの声を上げるだけだったから.
  1. 2017/04/30(日) 05:52:33|
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イーシャーナ

イサーン料理やイサーン音楽でも知られるイサーンの地名は,サンスクリット語のīśāna由来.

イーシャーナはシヴァの一面.

神格としては,通常,東北に配置されます.

したがって,イーシャーナはサンスクリット語では「東北」も意味します.

語源的には,イーシュヴァラと同じくīś「つかさどる,支配する」から来ているので,全てを意のままに司る主宰神という意味が出てきます.

Sadasiva.jpg

写真は五面のサダーシヴァ.

イーシャーナは上面.

教理的には本当は東南西北の四つ(タトプルシャ,アゴーラ,サディヨージャータ,ヴァーマデーヴァ)だけが見えて,五つ目の上の顔(イーシャーナ)はヨーガ行者にも見えないんですが,この像では見えてます.

可視化しすぎの病でしょうか.

Sadasiva2.jpg

こちらの像では上面は見えていません.こちらが文献規定に則した正規のもの.

ただし,南面と北面とが入れ替わっているのはご愛敬.
  1. 2017/04/28(金) 19:08:35|
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印哲新歓






上人橋マイティーガルにて,進学生歓迎の宴.総勢13人.

OBの原田先生,山口先生も参加してくださいました.

前菜各種に8種のカレー,2500円.

19:00ー22:00,BGMは内田ボブ

いつものことですが,居心地の良さに,ついつい長居してしまいました.

ヘルプのバイトはリサちゃん.

なぜか焼肉スタミナ苑の話題で盛り上がりました.
  1. 2017/04/24(月) 23:52:42|
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増殖するスリランカ料理屋

福岡で増殖しつづけるスリランカ料理屋.

もとはといえば,九大建築出身の日本人建築家のオーナーがスリランカ料理屋「ヌワラエリヤ」をオープンしたのが最初.

1988年.

ここを起源として,コックさんがあちこちに独立.

さらにそこからも分岐して,増えに増えています.

九州全体でいったい何軒あるのか分かりません.

天草にまで同スタイルの店(カリー食堂リトル・スパイス )があるのには驚きです.


昨日のこと,上人橋を歩いていると,帽子の外国人が居酒屋のチラシを配っていました.

受け取って5m後歩いた後に紙を見直すと,なんと「スリランカ料理」でした.

「Reon上人橋店」

スリランカ料理店としてリニューアルオープン.

引き返して兄ちゃんにあれこれ質問.

ウパーリさん.

仏典に出てくるのと同じ名前(優波離)です.さすがスリランカ.

もともとスリランカ熊本で働いていたとのこと.

このスリランカ熊本は,スリランカ鹿児島とも兄弟の店.

こうなってくると,樹形図を書いて整理しないと分からないです.

ヌワラエリヤ1988,ツナパハ1994,,ツナパハ2号店2016
スリランカくまもと2005,スリランカかごしま2009,ハル・スリランカ(大野城)2011,モナラ2015,スリランカ福岡2016,スリランカくまもと2号店2016
へら味屋(博多区)2014
ポルポル2014(西新)
オスアシリ2015(香椎に二店舗目もオープン2017)
キャナリー2016
Reon(リニューアル)2017

このほか,閉めた店もありました.

ランペ,しんは,北天神の時のポルポル,香椎のシンハギラ.

栄枯盛衰.

にしても,店舗数の多いこと.

それだけ支持されているということでしょう.

ここまでくると,ツナパハスタイルのカレーは,福岡辛いもの好きのソウルフードといっていいでしょう.
  1. 2017/04/24(月) 20:04:48|
  2. 未分類

vm


  1. 2017/04/23(日) 14:22:05|
  2. 未分類

ネワーリー



WNOのサマエボジ
  1. 2017/04/23(日) 14:05:30|
  2. 未分類

वैशाखीमेला

DSC03237.jpg
DSC03247.jpg

過日のヴァイシャーキーメーラー.

奈多から箱崎に移って大成功のハリさん.

箱崎で姿を見かけず,二号店のほうにいるのかと思いきや,いまは更に別の店.

バジェコセクワハウス.

博多駅前に新しい店がオープンしてるなと思って覗いてみたら,中から見知った顔が出てきてびっくりさせられました.

ヴァイシャーキーメーラーには来ないと言っていましたが,気が変わったのでしょう,セクワで出店していました.

焼き物係の人は精悍です.軍人あがりでしょうか.ククリを持たせたら無敵のたたずまいです.

いっぽうのソルマリ,祭りに食べるセルローティー.
  1. 2017/04/23(日) 13:40:21|
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आङ्गन्



タカリセット.

当然といえば当然ですがNと同じメニュー構成.

で,お味は,やはり,こちらのほうが一段上か(個人舌比).

ギーがついているのは,やはり嬉しい.

大根の発酵臭酸味がたまりません.

周囲の学生と思しきネパール人たちを見回すと,当然のことながら,500円最安セットを注文,山盛りのご飯をみんな食べていました.
  1. 2017/04/23(日) 09:53:46|
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நந்தினி




ベジミールス,さらに,ポロタセットを追加.

サラダは私的には不要ですが皿のハート型が可愛い.

ミールスはココナッツのスウィーツが何気に嬉しい.

漬け物もしっかり美味.

左上カトリはレンコン.

ポロタ(二枚)のチキンカレーも,ポロタに合う少しこってり系のものでした.

組み合わせに安心感があります.

サンバル・ラッサムは一杯おかわり無料.

ご飯はおかわり100円.

最初からはっきり書いてくれているので,こちらも気が楽です.
  1. 2017/04/23(日) 09:45:48|
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片岡真実「チャーミングな旅――顕微鏡と望遠鏡と絵画」


片岡真実 2017: 「チャーミングな旅――顕微鏡と望遠鏡と絵画」,In: 『N・S・ハルシャ展:チャーミングな旅』カタログ,pp. 14-25.

洋の東西・古今を問わず,あれこれと参照しなければならないので,美術関係の方も大変だなと思いながらも,インド関係については,やはり,細かいところが気になってしまいます.

きっと参照文献も日本語では充実してないので苦労されたことでしょう.

しかも,北インドならともかくも,南インド,マイソール(マイスール)ともなると,ぐぐっと日本語での情報量は減ってしまいます.

英語文献を参照するしかないでしょうが,日本人向けの解説では,やはり,一般に購入可能な本ということになるのでしょうか.

と,あれこれと同情を禁じ得ません.

片岡 2017の参照文献リストを見てみると,インド関係では,

立川武蔵他『ヒンドゥーの神々』せりか書房,1980年
『岩波講座 東洋思想 第七巻 インド思想』, 1989年

の二書――インド関係となると結構古い本しかないということです――があげられており,後者からは,

服部正明「I インド思想史(三)」
竹中智泰「2護の表示対象――個物と普遍」

の論文が引かれています.(選書は,なかなか良いチョイスです.)

竹中先生も,まさか,自身のヴァイシェーシカ論文がこんなところで引用されるとは予想しなかったことでしょう.


さて,片岡氏の解説冒頭のp. 14左に次の記述.

片岡 2017:14左:楕円形で描かれた全宇宙(ブラーフマン)の内部には……



いきなりブラーフマン.なぜ長音。

ブラフマンなら分かりますが.

ひょっとしてアクセント記号のあるbráhmanを見て,長音だと思われたのでしょうか?

ヴェーディストでしょうか.

仮説1:bráhman→全宇宙(ブラーフマン)

間違いの元が非常に気になります.

そして楕円形とくれば,やはり,本来言うべきは「ブラフマーンダ」brahmāṇḍaではないでしょうか.実際,同じ絵を掲げる同カタログp. 226の足澤さんの解説では,「梵卵(宇宙の卵=世界そのもの)」と記されています.

ブラフマンの卵,いわゆる,宇宙卵.

ひょっとすると,私的な会話でブラフマーンダという音を聞いて,それが既に氏の頭の中にあったブラフマン,梵,および,どこかの解説にあったブラーフマナbrāhmaṇaやブラーフマンbrahman(いわゆる婆羅門)と結び付いて,「全宇宙(ブラーフマン)」という出力となったのかもしれません.

仮説2:brahmāṇḍa→全宇宙(ブラーフマン)
仮説3:brāhmaṇa→全宇宙(ブラーフマン)
仮説4:両者の混合→全宇宙(ブラーフマン)

ちなみに,氏による表記が,一過性の誤植や誤記ではなく,氏の頭の中にあったことは,同表現が次のように繰り返されることからも確認可能です.

片岡 2017:22左:同時にアートマン(我)としての自己とブラーフマン(梵)としての宇宙全体を往来する……



私的な会話でインド人から聞く場合には,梵天であれば「ブラフマー」「ブフマ」ぐらいの発音でしょうから,「ブーフマン」というような音に聞こえることはないはずです.

とすると,やはり,ブフマーンダという音を聞いて,そこから,これまでの氏の知識と結び付けて,「ブラーフマン」というのが出てきたという推定が正しいように思います.

あるいは,英語的発音のブラーマンから,綴りを考慮してブラーフマンとなったのかもしれません.

仮説5:brahman→ブラーマン→ブラーフマン

はたして真実は如何.


p. 22左では「視線(gaze)」という英語の単語を取り上げていますが,やはり,インドで「見る」「眼差し」とくれば,ダルシャナdarśana(見ること)という単語を取り上げて,その深みや広がりを論じるべきではなかったかと思います.

少なくともハルシャ氏の世界観の中で,英語的な意味の広がりよりも,ダルシャナという語の意味世界の広がりのほうが遙かに重要だと思われるからです.

続いて,「タマシャ」についての解説があります.(なお,私なら「タマーシャー」と表記します.)

片岡 2017:22左:ハルシャがベルリン滞在時に制作した立体作品《タマシャ》(2013)の猿たちも同様だ。タマシャとはヒンディー語で、何らかの騒動や胸騒ぎ,せわしなさを表現する言葉だそうだ。



ここでも,ダルシャナ(見ること)からの連関で,まさに「見物(みもの))」という単語で説明が可能だったのではないでしょうか.

ちなみに,tamāśāは,ミーナークシーの辞書だと

1. show, display
2. fun

と出てきます.マックレーガーでも,似たような感じで

1. show, spectacle
2. amusement; fun; joke
.....

などと出ています.つまり,日本語で「こりゃー,みものだ」と言う時の「みもの」です.

マックレーガーは親切に,

A. tamāśī
P. tamāśā

とつけてくれていますから,アラビア,ペルシア起源であることが分かります.

騒動を指さして「こりゃー,みものだ」「なにがはじまるのか」「ちょっと見てみようぜ」というニュアンスです.

そういう意味で,おそらく,私的な会話では「騒動」turmoilという単語が使われたのではないかと推定します.

ちなみに,対応する英語版p. 36leftでは,

In Hindi, tamasha refers to a state of restless unease or turmoil.


と表現されています.

いずれにしても,片岡氏の言う「胸騒ぎ」や「せわしなさ」では,「タマーシャー」の本来の語感からは,少しずれた方向に行ってしまっています.

猿が「みもの」を指さしている,そこに,興味・笑い・嘲笑など,ないまぜになった冷めた視線の皮肉も生じてきます.「騒動」ならまだいいですが,「せわしなさ」「むなさわぎ」だと,タイトルが本来持つニュアンスからずれてしまっています.

ローカルなインド世界に息づく普遍性を取り出すにあたって,インド人自身の世界観を無視して,いきなりグローバルな英語知識世界から切り込まざるをえないという日本語文献世界の知的貧困さも,また現代日本を表すひとつの滑稽な「タマーシャー」です.

もっとも,ヒンディー語世界も,インドでは,一種のグローバルな世界なわけで,さらに深く論じるには,ハルシャ氏の母語カンナダ語の世界についてもよくよく知らないといけません.ごくごく単純化すると,

カンナダ<ヒンディー<英語

というような構造も念頭に置いておかないといけないということです.(もちろん,そのような階層・上下構造を抜きにして,同時併行的に水平に論じるのならば,なおさら,カンナダ世界に通じることは必要でしょう.)

ハルシャ氏は,はたして,カンナダ語では,どのような単語を思い浮かべていたのでしょうか?

さらに深く追求するならば,インド人自身が普遍を語りうる豊富な語彙を備えているというその背景にある,アラビア,ペルシア,サンスクリットの語意世界についても注意と敬意を払う必要があるでしょう.

特に,親サンスクリット的な現代カンナダ文化圏においては,なおさらでしょう.




展示の一部に,ハルシャ氏の背景を知るためのインド知識篇として,マイスールなどに関する解説コーナーが設けられていました,監修は,プーナに長くいらっしゃった足澤さんでした.
  1. 2017/04/23(日) 08:44:40|
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हर्षहर्षितहृदयो हम्






多数の人が空を指さすというイメージで思い起こされるのは,インドでの日食のこと.

ティルパティに留学していたときが一回目.

そして,ポンディシェリに滞在していたときが二回目.

いずれも周囲のインド人は大騒ぎ.

ポンディシェリでは,人々が海岸に出てきて,それにあわせてサングラスやら半透明の黒っぽい下敷きやらを手にした物売りがここぞとばかりに声を張り上げていました.

日食が始まると同時に,もうゲームオーバーと諦めたのか,不要になった商品を周りの人に「フリー,フリー」と配っていたのが少し同情を誘います.
  1. 2017/04/22(土) 18:15:20|
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A Critical Edition of the Khyati Section of the Nyayamanjari

A Critical Edition of the Khyati Section of the Nyayamanjari: Bhatta Jayanta on Akhyati and Viparitakhyati. 『東洋文化研究所紀要』(The Memoirs of Institute for Advanced Studies on Asia) 171, 476(1)-401(76).

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/72195
  1. 2017/04/18(火) 19:15:25|
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Raghuvaṃśa 9.1-5

以下はVallabhadeva註に従った読みと解釈.

韻律はドゥルタヴィランビタ.(∪短,- 長)

∪∪∪  -∪∪  -∪∪  -∪-

タタタと走った後にタンタタ,タンタタと繰り返して,最後に,タンタタンで解決.

また同音で韻を踏むヤマカがあります.


1. 父の後に(anantaram)北(uttara)コーサラを

正しく得てから(samadhigamya)抑制(samādhi)により感官を制した

偉大な戦士(mahāratha)ダシャラタ(daśaratha)は治めた

禁戒を保つ者たちと(yamavatām)守護者たち(avatām)との頂点に位置する彼は


2. 得たものを規定通りに彼は守ったので

山の穴(nagarandhra)を作る両者に等しい威力をもてる彼の

自身の家系に相応しい大臣たちは

街とともに(sanagaram)美徳に専心する者となった


3. 二人だけを賢者たちは語る

バラの殺戮者とかの財主(王)――刑罰棒を持つマヌ王(manudaṇḍadhara)の系譜にある彼――とを

責務を果たした者たちに適時に雨降らすことで

疲労を除く者として(śramanudam)


4. 国に病気は地歩を置かなかった(janapade na gadaḥ padam ādadhāv)

敵からの脅威がどうしてあろうか

大地は実り豊かになった

アジャの息子――平和を好み(śamarate) ,不死の[神々]に等しい威光を持つ者('maratejasi)――が王である時に


5. ちょうど十方位を征するラグにより

その後アジャにより富を増やした

[大地は]彼を得てから同様にならないことはなかった

大地は主――無欠の(mahīnamahīna<mahī inam ahīna-)勲を持つ者を[得てから]



最後の9.5dは,nanamahīnamahīnaparākramamナナマ ヒーナマ ヒーナパ ラークです.

カーリダーサ,グプタ朝期最高のラッパーと言って良いでしょう.
  1. 2017/04/18(火) 18:55:36|
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namaste fukuoka








鼻笛の日本人が「異邦人」を鼻で吹くという,ぐだぐだ感満載の「ナマステ福岡」の舞台.

たしかに「ナマステ福岡」ですから,別に,「インド」という語はどこにもありませんので,特に,インドにこだわる必要はありません.

直訳すれば「こんにちは福岡」ですし,福岡でありさえすれば何でもあり,という解釈も成り立ちます.

少なくとも,舞台の中身は,インドと関係のないものがかなり多かった印象です.

そして,それは,或る意味,正解なのでしょう.

というのも,バトンならバトンで知り合いがくるでしょうし,フラダンスならフラダンスでまた知り合いがくるでしょうし,また,インドの禁欲的なバラタナーティヤムからはかけ離れたアラブの妖艶なベリーダンスも,全く別のグループの人々がやってくるからです.

つまり,インドに全く関係ない層にインドに触れて貰うという意味では,逆に,インドでなくてもいいのではないか,という戦略も成り立ち得ます.

ともあれ,二日目は絶好の天気で何よりでした.

人出も多かったので,各店の売り上げもよかったでしょう.

面白いのは,前週のネパール祭りとの違い.

ネパール人は,それぞれのコミュニティーがあり,各団体で統率がとれていました.

また,ネパール人自身が参加し,そして,楽しむ祭り,という感じでした.

いっぽう,インド祭りのほうは,インド人は,やる側というよりは,お客さんという立場の人が多い感じでした.

社会階層の違いでしょう.

ネパール人は,語学学校の学生,そして,そこからネパール料理屋や商売などで定着した層.

いっぽうインド人ファミリーは,百道あたりにあるIT系の裕福なホワイトカラー.

遅かれ早かれ用が済めばインドに帰るつもりの人々です.

福岡への根付き方にも違いがあらわれて当然です.

この手の祭りの主催は,学生・若者のエネルギーが必要になりますが,その点で,圧倒的にネパールのほうがマンパワーがある,ということでしょう.

ネパール祭りにネパール人のインド・ネパール料理屋が多数出店していたのは当然ですが,いっぽう,インド祭りのほうでは,インド人の出店数は少なかったように思います.目立つのはスラージと106.むしろ,オーラスやワナッカンといった日本人の店が健闘していたのが特徴的でした.

ネパール祭りにも出ていたインド料理屋のスラージは,ネパール祭りでは閑古鳥,二日目は出店すらしていませんでした(出店放棄?)が,インド祭りでは一転,最も良い場所に出店し,大層にぎわっていました.

インド祭りでは気合いをいれてタンドール釜まで持ち込んできた甲斐があったというものです.

パチャールさんの息子さんも忙しそうに立ち働いていました.



いっぽう、舞台の上からは、素人丸出し,間があきあき,ぐだぐだ,英日ちゃんぽん,絶叫の,耳うるさいだけの司会進行。来年は何とかして欲しいものです.

バラタナーティヤムの踊り手も,文脈に全く関係ない訳の分からない質問を唐突・矢継ぎ早にぶつけられた上に,さらに,親切・丁寧に答えても実は関心など端から無いので司会からは一切フォローもなし,可哀相でした.

いっぽう,ネパール祭りではプロの女性司会がそつなくこなされていました.

やはり,安心感がちがいます.餅は餅屋でしょう.

まあ,インドのカオスを味わうには十分すぎるほど十分でした.

最後はニラさんが踊って皆で踊り倒せば何とか形がついて収まるという,ニラさん頼りの舞台進行になりつつあります.
  1. 2017/04/17(月) 22:36:13|
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